教会の誕生日

使徒言行録2章1~11節

 イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された事を記念して祝う「過越の祭り=五旬祭」でエルサレムは賑わっていましたが、弟子達は主イエスの復活や昇天の出来事等で、戸惑いと混乱の中にいました。
 しかし、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける・・・」(1:8)という主イエスの約束を信じ祈っていた時「・・・突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ・・・炎のような舌が分かれ分かれに現れ・・・一同は聖霊に満たされ”霊˝が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2:1~4)神の御業は祈りから始まり、絶望の中にいた弟子達は神への信頼を取り戻し立ち上がり、福音が全世界へと伝えられていきました。こうして次々とキリスト者が生まれ教会が誕生し、礼拝を献げる民が生まれました。
 「霊」とは、本来「息・風」と同じ語で、風は目には見えませんが嵐の時、木や家を倒す大きな力があります。同様に霊も見えませんが、天地創造された神の偉大な力を表わし、人を全く新しく造り変えてくださる神の恵みの力です。弟子である臆病者のペトロは、主イエスの逮捕を恐れて裏切って逃げ出した者ですが、聖霊を受けると主イエスの死と復活の出来事を通して、大胆に罪の救いを宣べ伝える者と変えられました(4:10~12)。聖霊は人の心の奥底に触れて、人の無理解を乗り越えさせ、神の真理を悟らせてくださいます。
 「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(8節)言葉の違いを越えて魂の奥底に直接響く言葉で、キリストを伝えようとする心、神の御業を理解する事ができるようになりました。「神の御言葉をお聞きしたい。神に感謝と賛美を献げたい。」という同じ心を通して、私たちを交わらせてくださる場が教会で、言葉以上の言葉が存在する所が教会です。言葉以上の言葉が通じるのが教会です。
 ペンテコステの出来事は知性を越えた象徴的な出来事ですが、弟子達がひたすら祈っていた時に御業が起こった事実を私達は確認しています。弟子達は全てを失って、祈りによってのみ支えられていたのです。反対に旧約聖書に登場するサウル王は、初めは祈りによって支えられていましたが、自分の持てる力を振って自分を守り始めた時「神からの悪霊が激しく降り・・」(サムエル上9:21)と、聖霊が去っていきました。常に全てを失くした弟子達のように祈りによって支えられてキリストの福音を証し、聖霊が息づく教会でありたいです。

キリストのいる教会

ルカによる福音書8章22~25節

 教会は古来より「舟」に譬えられてきた。その理由の1つは創世記「ノアの箱舟」であり、もう1つは、弟子と共に舟に乗られた主イエスが突風や嵐を静められたという記事(ルカ8:22-25、マタイ8:23-27、マルコ4:35-41)である。エフェソ1:23には「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と記されているが、弟子たちの乗った舟は様相が違っていた。
●「彼らの舟と心は、獰猛な水で満ち満ちてしまった」
 舟上は元漁師の弟子たちの独壇場となり、主イエスは眠られた。教会運営は操船に等しい。教会を私たちの独壇場とするならば、主は眠られ、曇った霊の目に主の御姿と御業は見えなくなる。そんな時に限って突風が吹き、大波が襲う。マタイとマルコは“【舟】は水でいっぱいになった”、ルカは“【彼ら】は(水で)いっぱいになった”と原語で表現した。教会を取り囲む外界は天災や人災など人心を怯えさせる出来事で満ちている。教会の少子高齢化に将来を危ぶむ声も絶えない。私たちが慢心し、主に依り頼むことを忘れ、世の荒波に自分たちの力で立ち向かうならば、私たちは必ず打ち砕かれ、恐怖で満たされる。
●「先生、先生、滅びつつあります」という「祈り」
 “溺れる”と“滅びる”は同じ単語。しかし、たとえ恐怖のどん底に叩き落とされても諦めてはならない。弟子たちを見よ。「先生、先生、おぼれそうです」とは主への祈りであり、教会の果たすべき大切な役割である。私たちが主イエスに近づき、祈り求める時、主は風と荒波を静め、獰猛な水を生命の水に変えて私たちを潤し、私たちの心と教会に平安をお与え下さることを覚えよう。
●「あなたの信仰はどこにあるのか」
 ルカ8:25の「信仰」は定冠詞付きの「ザ・信仰」。主イエス・キリストに対する特別な信仰を主は私たちに求めておられる。「あなたの信仰はどこにあるのか」。今朝、私たちは主の問いに率直に「主よ、私たちの信仰はあなたの御前にあります。既に世に勝利したあなたが共に居られ、あなたの満ち満ちておられる御教会に、そして私たちの心の内にあります。」と確信を以てお答え出来る者へと変えて頂こう。どうぞ、主を信じ感謝し、祈り求めつつ、輝かしい目的地を目指して勇気を出して、主と共に人生航海を漕ぎ行こう。

在主

神の忘れることのない愛

イザヤ書49章14~16節

 神に対して罪を犯し続け、預言者の警告に耳を傾けないイスラエルの民は、罪の代償を払う事になりました。敵国であるバビロンに捕えられ捕虜となり、信仰の拠り所であるエルサレムの神殿は破壊される、という大きな裁きを受けました。彼らの信仰は神に立ち帰る所か諦めとなり、益々神から離れ「どうせ、神に捨てられた、神に忘れられた」と諦めと無力感が漂っていました。
 そのような状況の中で神は「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。」(15節)と、神はご自身の愛を母親の愛に譬えて仰せられたのです。例え母子が分かれるような事情があったにしろ、母親が子を想う気持ちは変わらないように、神の愛は不変です。
 人間は罪を犯して自ら神から離れた挙句に「どうせ・・・」と、信仰を投げ出し嘆くものです。そのような弱い愚かな私達に対する神の愛は、忘れる事も変わる事も決してない事をイスラエルの民を通して示しております。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう・・・わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています・・・」(ロマ8:35~39)私達がどんなに不忠実であろうと、一度救われた人間に対して、変わらずに真実であり続けるのが神の愛で、その一点で私達の信仰はかろうじて保たれているのです。人間の救いは、人間側にあるのではなく、主イエスを十字架につけるまで私達を愛してくださった神の真実な不変の愛にかかっています。これ以外、私達が神の前に立ち続けられる方法はありません。
 更に「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)城壁とは当時のイスラエルの無惨な姿で、それは私達が抱えている課題の現状であるといえます。これらを神は手のひらに忘れないように書くのではなく、「刻みつけて」くださっております。子どもが悩む時、病に侵された時、親は子供以上に悩み苦しみます。それと同じように、神も私達以上に自らの苦しみとして刻みつけてくださり、執り成しの祈りをしてくださっております。そこに私達の救いの依り所があります。神は「あなたの罪、弱さを良く見て反省せよ」とは仰せになりません。「キリストの愛の広さ、長さ、深さがどれほどであるかを理解し・・・それによって満たされるように。」(エフェソ3:18~19)と、祈ってくださっております。

実を結ぶ神の御言葉

マルコによる福音書4章1~9節

 主イエスは多くの譬え話をされましたが、代表的なものに種蒔きの譬え話があります。種は神の豊かな「御言葉」を指し、土地はそれを聞いて受け止める人間の「心」を現しています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(3節)直訳は「見よ、出ていった、種を蒔く人が」で、種蒔く人は主イエスです。
 裁かれるべき私達が罪から救われて、豊かな実を結ぶ為の神の御言葉をお語りになる為に、父なる神から遣わされた主イエスを見よ、と仰せられます。神の御言葉は人間を救う力を持っており、救いの実りと祝福を豊かに与えてくださいます。この実りは有り得ない程の豊かさです。
 当時の種蒔きは先ず種を蒔いてから後で耕すという方法でした。道端に落ちるか(4節)、石だらけの土の少ない所か(5節)、茨の中か(7節)、良い土地に落ちるか(8節)全く分かりませんが、あらゆる所に蒔かれました。この種蒔きのように、神の御言葉も実を結べそうな特定の人ではなく、分け隔てなく全ての人々に対して蒔かれています。受け取る私達は御言葉より、自分にこだわる頑なな心がありますが、それでも神の御言葉は蒔き続けられています。故に「聞く耳ある者は聞きなさい」(9節)と、主イエスは仰せられます。
 「聞く耳」は自分自身で作り出すものではなく、主イエスとの関わりにおいて神から与えられものです。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上3;10)と、神に求めていく事から始まります。「・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人・・・ときが巡り来れば実を結び・・・」(詩編1:1~3節)御言葉を豊かに吸収して育ち、やがて時が来て大きな恵みの力が働き、実りを豊かに与えてくださり、30.60.100倍の実を結ばせてくださいます。
 ルカによる福音書では「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」。(8:15)と、記されています。忍耐とは、「もちこたえる」という意味です。真冬の間、草木が雪の下でひたすら耐えて春になってやっと芽を出す様子が、もちこたえるという事だと思います。しかし私達がもちこたえている以上に、神が忍耐をもって働いてくださっております。「守る・忍耐」がなければ、残念ながら信仰は一時の感情に終わってしまいます。立派な善い心とは、愚かな自分を見るのではなく、良い土地に耕してくださるキリストに関わり続けていく事です。どのような事があっても、種を蒔いてくださっているキリストの元で御言葉に与り続けて参りましょう。

神の家族

マルコによる福音書3章31~35節

 「・・・わたしの母、わたしの兄弟とはだれか・・・見なさい。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33~35節)
 生まれながらの血筋や血統を越えたイエス・キリストの血潮の絆と神の愛によって結ばれている者が神の家族であると、主イエスは仰せられます。これは教会の姿で、原罪をも乗り越えて、豊かな命を与えてくださった神の御心に生きる、神を信じる信仰である福音を示しています。
 イエス・キリストの系図が聖書に記されていますが、理想的な人の生涯を記して「あなたもこのようになりなさい」というのではなく、むしろそこには罪人の汚れた卑しい血筋が記されています。主イエスの血潮を受け、清められて忌まわしい罪の重荷から解放され、神と人との新しい人間関係を築き上げてくださった希望が記されています。この家族の中にあなたも入れられ、天の故郷まで名を連ねていける、という招きです。生まれながらに流れている「罪」という血筋を自分自身で清くする事のできない私達に対して、深い慰めと力が与えられます。
 主イエスは「周りに座っている人々を見回して言われた。・・・」(34節)と、あります。周りとは、原語では「輪になって」という言葉です。人々が主イエスを中心として輪になって座って聞いている様子です。主イエスの眼差しが全ての人に届き、その輪の中に誰でも飛び込み込む事ができます。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)自分の境遇や血筋、自分の惨めさを嘆くのではなく、神の愛の内に神の家族として、既に歩ませて頂いている喜びに感謝する私達です。そこには能力や特別な何かがあるのではなく、共に主イエスを中心として、キリストの思いで、一緒に悩み一緒に祈る仲間です。このように神が私達を主イエスによって神の家族の一員として受け入れてくださいました。
 教会はキリストの命を与えられた神の家族の集まりで、過去・現在・未来を貫き、民族・文化・階級等を越えたグローバルな広がりの中にあります。それは相手を所有する愛ではなく、キリストの命に与りながら、自分を与える愛として結ばれていく家族です。これからの私達の使命は、お互いに幸せにする為に選ばれた主イエスの働き人として、神の家族の輪が無限大に広がっていく事にあるのではないでしょうか。