神の家族

マルコによる福音書3章31~35節

 「・・・わたしの母、わたしの兄弟とはだれか・・・見なさい。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33~35節)
 生まれながらの血筋や血統を越えたイエス・キリストの血潮の絆と神の愛によって結ばれている者が神の家族であると、主イエスは仰せられます。これは教会の姿で、原罪をも乗り越えて、豊かな命を与えてくださった神の御心に生きる、神を信じる信仰である福音を示しています。
 イエス・キリストの系図が聖書に記されていますが、理想的な人の生涯を記して「あなたもこのようになりなさい」というのではなく、むしろそこには罪人の汚れた卑しい血筋が記されています。主イエスの血潮を受け、清められて忌まわしい罪の重荷から解放され、神と人との新しい人間関係を築き上げてくださった希望が記されています。この家族の中にあなたも入れられ、天の故郷まで名を連ねていける、という招きです。生まれながらに流れている「罪」という血筋を自分自身で清くする事のできない私達に対して、深い慰めと力が与えられます。
 主イエスは「周りに座っている人々を見回して言われた。・・・」(34節)と、あります。周りとは、原語では「輪になって」という言葉です。人々が主イエスを中心として輪になって座って聞いている様子です。主イエスの眼差しが全ての人に届き、その輪の中に誰でも飛び込み込む事ができます。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)自分の境遇や血筋、自分の惨めさを嘆くのではなく、神の愛の内に神の家族として、既に歩ませて頂いている喜びに感謝する私達です。そこには能力や特別な何かがあるのではなく、共に主イエスを中心として、キリストの思いで、一緒に悩み一緒に祈る仲間です。このように神が私達を主イエスによって神の家族の一員として受け入れてくださいました。
 教会はキリストの命を与えられた神の家族の集まりで、過去・現在・未来を貫き、民族・文化・階級等を越えたグローバルな広がりの中にあります。それは相手を所有する愛ではなく、キリストの命に与りながら、自分を与える愛として結ばれていく家族です。これからの私達の使命は、お互いに幸せにする為に選ばれた主イエスの働き人として、神の家族の輪が無限大に広がっていく事にあるのではないでしょうか。