飼い葉桶のイエスさま

ルカによる福音書2章1~12節

 イエス様のご誕生を伝えるにあたり、皇帝アウグストゥスの勅令により、住民登録する為に人々は自分の町に旅立ったとあります(1~3節)。住民登録の目的は税金の徴収と、ローマ帝国の体制の強化の為に行われ国家や役人の欲を満たすものでした。役に立つ者、そうでない者を選り分け人に優劣をつけ、差別するようなこの世の只中にご降誕されました。
 ベツレヘムの宿屋は既に満員でマリアとヨセフの泊まる所はなく、神の子であるにも関わらず、イエス様は馬小屋の飼い葉桶に誕生されました(7節)。大勢の人々は賑やかな町の中心の宿屋にいましたが、泊まる場所すらなく、人々から追いやられた縁におられるお姿はイエス様のご生涯そのものです。
 人は常に賑わいの中で存在を認められたいものですが、いつのまにか誰も周りにいないような、縁に追いやられた孤独を味わいます。私達は自分の場所を失いながら生きていますが、そうして真実なものが見えてきます。そこでイエス様が受け止めてくださっている事を。どん底と思ってもそこにイエス様がおられる事を。イエス様のご誕生の様子をドイツ語訳では布にくるんでおむつをあてて、と、リアルに私達と同じ人間となった神の子イエスを現しています。それは人間と同じ苦しみや悲しみを味わい、罪の痛みを共に担ってくださる事を強調する為です。罪を背負い全ての悪から守り、孤独にさせない為に、私達を囲む為に縁で飼い葉桶にお生まれになりました。
 そのような喜ばしい知らせを真っ先に告げられたのは、その地方で羊飼いをしていた人々でした(8節)。彼らは野宿しながら羊といつも共におり帰る家もない人々で、ローマ帝国にも数えられず、ユダヤ人社会にも場を持たないような見失われた人々でした。イエス様のご誕生は恵まれた選ばれた人の為ではなく、羊飼いのように自分の存在すらないような、この世で数えられない、忘れられたような人々の為のものです。
 私達の命はこの世の権力者に数えられるものではなく、救い主イエス・キリストによって罪から救われた貴い命として神に数えられています。救われる命が天に増し加えられる為にイエス様がご誕生されました。私の貧しい命が天に数えられている幸いをつくづくかみしめるクリスマスです。

ベツレヘムの星

マタイによる福音書2章1~12節

 ヘロデ大王の時代、ユダのベツレヘムでイエス・キリストがお生まれになった時、東方の占星術の学者達は星に導かれてエルサレムにやって来ました。自分達の今、置かれている場所から飛び出し星に導かれ、救い主の元に辿り着き、ひれ伏し礼拝をお献げしました(10節)。彼らは神の救いを告げる喜びの言葉に従って旅し、遂に救い主イエス・キリストに出会い喜びに溢れました。救い主を尋ね求め、イエス・キリストに出会う喜びがクリスマスの恵みです。
 救い主イエス様のご降誕は人間側が求めたものではなく、神側の一方的な恵みによって定められており、クリスマスに成就しました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)この神の愛に最初に応えたのが占星術の学者達でした。
 同じ救いの喜びの声を聞いてもヘロデ大王やエルサレムの人々は恐れました(3節)。恐れの理由は違いますが、共通する事は自分達が築き上げた地位や安全な生活が崩れる事でした。今の自分を守る事に精一杯な人は神の喜びの語りかけに耳を貸そうともせず、救い主を見出す事はできません。自分で築き上げた物や人間関係を大切にしますが、それは何の保証もない不確かなものです。そこにしがみついている限り不安や恐れは取り除かれません。神が私達の為に備えてくださった救いの道を求める事が祝福の基です。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)
 
 神は人間の罪を暴いて裁く為ではなく、私達を愛し憐れんでくださり救う為に、主イエスをこの世に送ってくださいました。主イエスはご自身の身を犠牲にして、その尊い命を私達に与え、夜も眠る事なく身を挺して悪から守ってくださるお方です(6節)。この神の愛に応えない訳にはいかないのではないでしょうか。
 誰にも目に留められない家畜小屋の冷たい飼い葉桶に寝かされた救い主イエス様は、私達が今の生活から飛び出してイエス様の元に救いを求めて来る事を待っておられます。「人間の最上の幸せ」は、この救い主イエス様と出会う事です。

先駆者

マラキ書3章19~24節

 今はアドベント(来臨の意)、教会は主イエスの降誕(初臨)再臨を待ち望み、祝いを準備する時。洗礼者ヨハネは主に先立ち世に現れ、人々に主の来臨に相応しい備えを促した。
【神の真実な愛】 神は愛である。マラキ書は対話形式[神の呼びかけ、神の民の反論(1:2-3:14)「どのように、なぜ、どんな、何の」、神の説明と宣告]以て神の真実な愛を示し、私たちを救いへと常に導く。今朝、父なる神は愛故に子なる私たちに主の日の救いに与る備えをせよと告げられた。
【神の名を畏れ敬う私達には、義の太陽が昇る!】 主の日(3:23)とは神が人類の歴史に介入される日。主の降誕(初臨)再臨主の日である。主の日高慢な者・悪を行う者・神に逆らう者(19,21)に炉のように燃える日となり、彼らは精錬する火(2)ではなく破壊する火(黙20:14-14等)によって燃え尽きて灰となる。しかし、神の名を畏れ敬う私達には、義の太陽が昇る(20)。義の太陽とは、神とその栄光そのもの、私たちを罪の呪縛から解放し、死に勝利された主イエス・キリスト。義の太陽が昇るとは主イエス・キリストを仰ぎ見ること。世の人々は主の十字架主の昇天を仰ぎ見たが、私たちが仰ぎ見るのは再臨の主である。義の太陽の光は翼の様に広く世を照らし、隅々の暗闇を消し去る。この御方を仰ぎ見る者は全て癒され、病い・怪我・罪による悲惨や苦しみから解放され、真の生命と豊かな平和に与る。罪と死に勝利したキリストの義に私たちは歓喜し、飛び跳ね、躍る!と主は仰る。
【主が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように】神はエリヤの出現 (3:23,24)を告知し、主イエスの降誕先駆者ヨハネを世に遣わされた。
 では主の再臨に先立ち、世の人々に福音を伝え、主の日の備えを促すのは誰か?神も私たちも愛する人々が撃たれることを望まない。神はその人々のため、最も必死になるはずの私たちを世に遣わされたのだ!私たちはヨハネと違い、信仰も霊性も乏しく、実に弱い。しかし私たちには希望がある。弱い所にこそ神の力が働き、愛する者と共に「義の太陽を仰ぎ見て歓喜する」日が必ず来る!そう確信して、まずは天よりの力を頂くことから祈り始めよう。

クリスマスの大いなる喜びに与る

ルカによる福音書15章1~10節

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18:14)神が主イエスをお遣わしになった目的は「一人の罪人」の救いのためです。
 本日の箇所は、自分は正しい人間と自負しているファリサイ派の人々や律法学者達が登場します(2節)。彼らのみならず、自分が罪人であるという自覚がない事が人間の悲劇です。アダムとエバが罪を犯した故に、人は誰でも神の元から迷い出て、滅びの道を歩まなければならない者ですが、その事にすら気づかないような憐れな者です。私達は自ら悔い改めて神の元に帰る事が出来ない、神から見失われた人間といえます。一匹では羊飼いのもとに帰る事のできない迷い出た羊と、見つけて貰わなければ見つける事ができない銀貨が私達の姿である、と譬え話が記されています(4~9節)。
 しかし、神は大切な私達が失われていくのを決して見捨てる事はなさいません。「あなたは高価で尊い」と愛してくださり、イエス・キリストを人としてこの世に送ってくださり、迷い彷徨っている私達を捜し出して神の元に連れ戻すという約束、旧約時代からの預言がクリスマスに成就しました。
 「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱っているものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル書34:16)連れ戻すだけではなく手当てをしてくださいます。十字架の血潮によってきよめ、復活の主イエスの力を与えてくださいました。故に私達は今、神の前に救われた罪人して永遠の命を頂いて生かされています。この事が神の大きな喜びです。「一緒に喜んでください」と、本日の箇所に繰り返し述べております(6.9節)。全ての人々がこの大いなる喜びへと招かれています。
 クリスマスにイエス・キリストがこの世にご降誕され、悔い改めのチャンスを神の方からくださっております。独り子を十字架に架けるまで、神が命をかけておられるのですから、一人の罪人が救われる事は何ものにも優る神の喜びです。「一緒に喜んでください」と、罪人の救いを喜んでくださっている主イエスの御心に、心からお応えできるクリスマスを迎えたいものです。主イエスと共に大いに喜べる恵みが私達に与えられています。