11月21日礼拝説教概要

「みんなの感謝祭」(収穫感謝礼拝) 民数記21章1~20節
 本日は収穫感謝日ですが、神に感謝する事を知っている私達・感謝できる私達は何と幸いな事でしょうか。聖書には神への感謝、賛美する場面が多く出てきますが、本日の箇所もそのような箇所です。
 この箇所は荒れ野における井戸開きを祝賀する歌と言われており、このあたりのアラビア人は今日でも、井戸開きを祝して歌う習慣を持っているそうです。イスラエルの民は長い間に亘って荒れ野を彷徨い、水もなく死にそうな時、かつて豊かな水の流れていた井戸の所にやってきましたが、井戸は塞がれており水は全くなく絶望的でした。その時神はモーセに「民を集め、彼らに水を与えよう」(16節)と約束されたように神は民の必要をご存知で、その解決の指示を与えられる方です。民は「井戸よ、湧き上がれ 井戸に向かって歌え。」と、祈りと神への賛美をお献げし、古井戸をもう一度深く掘った所、水は湧き上がりました。井戸の水は全く枯れてなかったのではなく、長い間人の目に隠れ、地下に川は流れていたのです。実は人の目には見えない所に最初から必要な水は溢れる程供えられていたのです。
 私達もイスラエルの民のように荒れ野を彷徨い、自分の立っている場所がカラカラに渇いて、神の恵みがないような状況であったとしてもその場で祈り、賛美をお献げするならその場で神の恵みを見出す事ができます。「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫に私の霊を注ぎ、あなたの末に私の祝福を与える」(イザヤ44:3)私達の口から祈りと賛美が湧き上がるように、日毎に新しく永遠に尽きない永遠の命に至る水(ヨハネ4:14)を与えようとしておられる神です。自分で新しい井戸を掘る必要はありません。目の前にある枯れたような古井戸を掘り起こすならば、そこに溢れるほどの命の恵みの水が既に供えられています。日毎に尽きる事のない永遠の命の水を私達に与えて養ってくださる神が私達の傍らにおります。感謝な事です。

11月14日礼拝説教概要

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」 ルカによる福音書19章1~10節
●「今日」という私たちへの決心の迫り
「今日」という言葉を聞いたイスラエルの民は、自分たちが神の言葉「申命記」を与えられた日を想起した。彼らは「今日」という人生の境目(ヨルダン川の岸辺)に立ち、以前の罪深い人生(荒野の40年間)と訣別し、神の祝福と救いの約束(約束の地カナン)を信じ、全く新しい世界へ第一歩を踏み出す決心を神から迫られた(申命記27:10)。
●「あなたの家に泊まりたい」という慈愛に満ちた神の救いの御計画
「家に泊まる」は「食事を共にする」を含む愛の交わりである。徴税人は(18:9-14)、強盗・人殺しと同列に罪深い者、異邦人や遊女と同じ汚れた者とされた。見失った小羊ザアカイを主イエスは見出した。「泊まりたい」は直訳で「泊る必要がある、泊らねばならない」の意、神の必然の「ねばならぬ」(4:43、13:33)である。主イエスと私たちとの出会いと救いは,神のご計画(エゼ34:11-16)の中に始まる。「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」(19:10)は本書の中心聖句であり、「失われたもの」とは女性、子供、奴隷、貧困者、排斥された人、取税人、サマリア人、そして私たち異邦人のことである。私たちは「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という神の御愛に速やかにお応えし(急いで降りて来)て、心の神殿(あなたの家)に主イエスを受け入れよう。
●「今日、救いがこの家を訪れた」という主イエスによる永遠の祝福
「立ち上がる」は「堅く決心する」の意。ザアカイの財産半分の施しと4倍の返済は異例で明確な罪の告白と悔い改め、イエスを「主よ」と呼ぶ信仰告白だった。喜んで主イエスを心に迎えるならばどんな罪人も全く新しくされ、主イエスはその家に「今日」救いが訪れたと祝福を宣言されると覚えたい。今日、私たちは主イエスを心にお迎えし「内住のキリスト」によって身も心も聖潔められ、全き者へと変えていただこう。

11月7日礼拝説教概要

「信仰の旅路」(召天者記念礼拝) 創世記12章1~9節
 誰もが死を迎えますが、死とは神が受け止めてくださる事です。「この人達はみな、信仰を抱いて死にました。」(ヘブル11:13)信仰を抱いて死ぬとは死は終わりではなく、新しい出発として希望を持って仰ぎ見る事です。この世の歩みは日々行き先の分からない冒険のようなものですが、アブラハムは神の祝福の約束を信じ、自分の廻りで起こった都合の悪い事をも受け取り、その都度新しくされながら歩み通しました。
 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(1節)神からの命令でした。自分で良く考えたり、人に意見を聞いたのではなく、神の声を聞いての決断でした。信仰とは神と向き合いながら自分で決断するものです。生まれ故郷を離れて行き先知らず出て行く事は、神から頂く思いがけない出逢い・出来事・試練によって自分というものが崩され、新しく造り変えてくださる事に期待する姿勢です。
 約束された祝福の地は既にカナン人がおり、決して楽な道ではありませんでした。アブラハムは行く先々で行き詰まり祭壇を築きました。祭壇を築くとは、目の前にある状況に埋没せず、礼拝をお献げして神の前に一人で立って、自分の行くべき所を示されて前進して行く事を示しています。アブラハムはロトと一緒に出発しましたが、後に決別の時が来ました。信仰生活は親しい人と楽しく一緒に歩むものではなく、一人一人が神の前に出て決断しながら歩く道です。「狭い門から入りなさい・・・命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13~14)と、命の道に通じる門は狭いもので、皆で賑やかに入るものではないと、主イエスは仰せられます。
 行き先は見えませんが、神は「大丈夫、あなたの行き先は全て見えている」と仰せられます。礼拝をお献げしながら神の愛と主イエスの復活の力に依り頼み、助けられながらこの世の旅路を終え、やがて神の御元に召される時、この地上より遥かに優れた恵みの天国へと迎えられます。

10月31日礼拝説教概要

「天の故郷に憧れる」 ヘブライ人への手紙11章6~16節
 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(6節)
 神に喜ばれるとは、神を喜ばすとも訳されます。信仰があるなら無力な私達でも神に喜ばれ、又、神を喜ばす事ができます。神が備えてくださったイエス・キリストの十字架の福音、私達に与えてくださった神の独り子・主イエスに対して、心を開き、罪を悔い改めて、救い主と信じる事、この一つの事をプロテスタント教会は語り続けています。礼拝は神に招かれて一同が集められ、ここに神がおられる事を厳かな畏れをもって信じ求めるものです。そしてそのように神を求める者に対して、神は大いなる報いを与えてくださると同時に、それが神の大きな喜びです。
 「・・・故郷を探し求める。・・・天の故郷を熱望していたのです。」(13~16節)信仰を持った人々の共通の足跡です。しかし、信仰の道を歩み出したアブラハムの父・テラは途中で挫折し、ロトの妻は後ろを振り向き塩の柱になってしまった事等を見ましても、天の故郷を求め続け、到達する困難を私達は知っています。この世の生活の中で悪の誘惑に惑わされ、挫折してしまう弱い者です。人間の本能というものは目に見えるものに気をとられ、反対に見えない世界を見据えていくという事は本能的ではないからです。故に私達は目には見えない世界を意識して求め続ける事が必要となります。既に主イエスの復活の恵みによって、この世の常識や人間の思いを遥かに超えた天の故郷(天国)に到達する道は通じています。それが教会であり、礼拝です。天の故郷への憧れを礼拝において、教会生活において握りしめていきます。神の恵みと憐れみによって信仰を持たせて頂いた私達は祝福を逃さないよう、礼拝毎に天の故郷に憧れを持ち続けて参りましょう。主イエスは「信仰がなくならように」と、私達の為に今も執り成しの祈りをお献げくださっています。