12月20日 礼拝説教概要

「飼い葉桶のイエス様」 ルカによる福音書2章1~7節
 イエス・キリストがお生まれになった時代、ローマ帝国では支配している広範囲の地域で抜かりなく税を徴収し、果ては徴兵の為に人口調査が行われました。神の御子にも係らず主イエスは、地上の人間と同じく私達が持っている悲しみを担う者として、数えられた存在の一人としてお生まれになりました。更に住民登録する人々で宿屋は溢れて泊まる場所はなく、誰にも目に留められないような惨めな飼い葉桶でお生まれになりましたが、排除された場所を神が敢えて選ばれました。それは主イエスの生涯を現し、常に外側から内側にいる私達を守り抜く為でした。
 イエスとは「神は救い」という意味ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人は神の支えが見えなくなり、自分の力で生き始め罪の世界へ落ちて行った為、罪の暗闇から救い出す為にイエス・キリストをこの世へ送ってくださいました。にも拘わらず人々は、主イエスの事を最後迄受け入れずに十字架に架けてしまいましたが、裏切られながら排除された所で「彼らは何をしているのか分からない」と、御自身の血を流し犠牲を払い、私達の命が失われないように守り抜かれました。
 私達はこの世では十把一絡げの一人に数えられているに過ぎませんが、人が忘れようともどんな境遇にあったとしても神は見ていてくださり「あなたは高価で尊い、愛している」と、底辺から支えられている事は私達の大きな喜びです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28、ヨブ12:10、ダニエル5:23)とあるように赤ちゃんがお母さんのお腹の中で大切に育てられる如く、私達の命は主イエスに包まれなければ育つ事はできません。外側からこの命を包んでくださる為に惨めな飼い葉桶に生まれてくださったイエス・キリストの誕生を迎えている私達は既に捉えられており、その御手の中でかけがえのない命に生き、力づけられて祝福されています。自分の手元に何があり何が残っているのかを心配するのではなく、この喜びを見出すのが最高のクリスマスです。

12月13日 礼拝説教概要

「冷たき世に」 ルカによる福音書2章1~7節
(1)私達に御自身の尊き命の犠牲をもって、救いを与えるために御降誕された主イエスに対してこの世が取った態度は、救い主を冷たく拒絶することでした。愛する故に、最大の犠牲である命をもって罪人である私達を救わんとした主イエスは、この世にお生まれになられた当初から、無視され、拒絶され、最後は十字架へと追いやられたお方でした。この言い難き的外れさ、冷たさは、私達自身の的外れさであり、冷たさです。
(2)人の業と神の業が並行して記されております。「アウグストゥス」は、ローマ皇帝の称号でもありますが、「威厳者」、「尊厳者」という意味があります。彼は皇帝としての尊厳をもって、住民登録の勅令をだ
しましたが、背後に神の御業が働いていることに気付いておりませんでした。結果、エレミヤやミカの預言が成就しました。またアウグストゥスやキリニウスも歴史上の人物ですので、神の御業は正に私達の歴史においてなされたのです。
(3)ヨセフという人物の守りがなければ、主イエスはお生まれになることができなかったかもしれません。夫ヨセフは婚約者が身ごもったことに苦悩したことと思います。けれども彼はこの現実を受け入れました。何故ならば、彼は、「正しい人」(マタイ1:19)であったからです。「正しい人」とは、「正しい人は、信仰に生きる」(ローマ1:17)とある「正しさ」です。すなわち、「正しい人」とは、「信仰に生きる人」です。私達は危機に立たされたとき、信仰を働かせることができるかどうかが問われることがあります。ヨセフのように振興を働かせることが果たして、その時、出来るでしょうか。
(4)「ところが」、マリアとヨセフには泊まる宿が与えられませんでした。結果、主イエスは飼い葉桶に寝かせられました。しかし、私達は心から感謝をもって、宿として救い主をお迎えしたいものです。

12月6日 礼拝説教概要

「灯をもって待つ」マタイによる福音書25章1~13節
 おとめが夜の暗闇の中で灯をもってひたすら花婿を待っている譬え話しです。この祝宴は天国の宴に招かれている事を示しており、賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの姿から主イエスがいつ来られるかわからないという事と同時に、個人にとっても決定的な事、例えば死が突然やってくるという事をも意味しており、決定的な時にいかに私達は備えるべきか、という事を示しています。
 愚かなおとめ達は既に神から祝宴に招かれている、という現状に安住し、やがての時の備えをしていませんでした(3節)。「油の用意をしていなかった」とありますがこれは信仰を意味しています。信仰は常に求め続けないとやがては後退していくもので、いざという時残酷に見えますが、愚かなおとめ達のように準備していなかった為に賢いおとめに油を貸してほしいと願っても断られ、祝宴の席に入る事が出来ずに戸を閉められてしまいます(10~13節)。ダビデが巨人ゴリアトと戦う時、サウルの装束を借りましたが、結局役に立たず自分の杖で敵を倒した事に象徴されているように、信仰とは人から借りるものでも与えられるものでもありません。神対自分との関係でいつも「目をさまして」求めていなければなりません(13節)。「あなたたちが待望している主は突如、その聖所にこられる」と旧約聖書最後のマラキ書に記されていますが、その後400年間神は沈黙されていました。イスラエルの民は様々な帝国の植民地となり2度と立ち上がれない程痛めつけられ暗黒の中にありましたが、神はその民を決して忘れる事はありませんでした。ザカリアとエリサベトの元に現れ「昔から聖なる預言者達の口を通して語られた通りに・・・覚えていてくださる。」と闇の中に至る希望の命の道が開かれた事をザカリヤは賛美しています(ルカ1章)。それは私達をも覚えていてくださるという事です。キリストにある私達は諦めずに暗闇から光を待つ限り、やがてくる備えられた救いの喜び・恵みの力で守られ輝けるのです。

11月29日 礼拝説教概要

「イエス・キリストはあなたを待っておられる」 ヨハネの黙示録3章10~22節       
 
 主イエスは神の御子にも関わらず、人里離れたベツレヘムの田舎の町はずれに誕生され、生涯の終わりは人間に裏切られエルサレムの門の外で十字架に架けられました。神の御子主イエスは常に人間の外側、この世から疎外され追いやられる一生でした。 
 十字架とは人が神を拒絶する事ですが、それにも拘わらず私達の現実に共に生きようとされ、道を開く為に常に外側から私達の心の戸を叩いておられます(20節)。しかし、人は神に心を閉ざし拒絶し自分の中に閉じこもってしまうのです。この事を宗教改革者ルターは「自分の中に折れ曲がる姿」と表現し、人は何をしても最後は結局自分の為にと全てが自分に向かって折れ曲がっていると述べています。この自己中的な罪を背負って暗闇の中にいる人間を救い出す為に、イエス・キリストを送ってくださったのがクリスマスの出来事です。
 廻りの人々から嫌われ誰にも目に留められない取税人のザアカイに主は、「この人もアブラハムの子=神の民、愛されている神の子」と宣言されました。十字架の主の元で見捨てられる人は誰一人いません(ルカ19章)。戸の向こうには救いの道、天国への道が既に用意され開かれており、今も神は諦めずに全人類の為に外で戸を叩き続けておられます。
 
 救いの道は自分で切り開くものではなく、この戸を開けなくては何も始まりません。別の言い方をすれば救いの道は難しい事はではなく単純で、この戸を開けるだけで良いと言えます。18節に「見えるようになるために」とありますが「見える」とは、この世の有様を見る目ではなく、戸の向こうで成されている神の御業が見えるようになる為です。
 
 戸を開けつつ人は目が開かれて天の国・永遠の命の道に生き始め、平安と喜びを見出す事ができるようになります。19~21節には「私」と8回もイエス・キリストは御自身を主張されています。
 今年のクリスマスもイエス・キリストは私達が心の戸を開いてお招きする事を待っておられます。

11月22日 礼拝説教概要

「ありったけの感謝」(収穫感謝日)歴代誌上29章10~20節    
 
 神殿を建てる事を生涯の望みとしていながら叶わなかったダビデ王は、神殿建設の大任を担う息子・ソロモンの為に財源を用意した事が29章の始めに記されています。その財源を今に換算すると何十兆円にも及ぶと言われています。その時彼は「このような寄進ができるとしても、私など果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(14節)と、全てのものは神から与えられている事に感謝と賛美をし、全会衆の前でその恵みを証ししました。
 このように神の前に謙虚なダビデと対照的に高慢な思いに支配されたウジヤ王という人がいました。「ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。」(歴代下26:15~16)この後彼は神から裁きを受ける事となりました。
そのようにせざるを得ない神の思いは、いかばかりかと思われます。
 私達はどのような時にも常に神から祝福を頂いておりますが、それを自分の力と勘違いして結局は神を無視するような愚かな者である、と言わざるを得ません。神は裁かれる時ではなく、賛美を受ける形で私達と出逢う事を望まれております。神に感謝と賛美する事の喜びを通して神の偉大さ・愛・恵みを益々知る事ができ、前を向いて喜びの信仰生活を送る事ができます。
 神に感謝するとは「有難うございます」と告白する事に留まるのではなく、感謝・賛美を通して自らが廻りに示して行く事であると言えます。ダビデの如くに莫大な財産を与えられたとしても、罪を赦されて復活の命を頂いている事は何よりも勝る大いなる感謝と喜びです。私達は一介の罪人に過ぎない者でありながら、このように素晴らしい祝福を頂いている事にありったけの感謝を献げて、救い主イエス・キリストを証しして参りましょう。

11月15日 礼拝説教概要

「嘆きを踊りに」詩編30 1~11
⑴人生には「パラドクス」、「逆説」があります。重度の知的障害と自閉症をもって生まれたわが子を通して、本当の幸せとは、自分の思い通りに物事が運ぶのではなく、自分のような小さな者さえも神は愛していてくださり、自分を通して神の素晴らしいご計画が進み、それに従っていくところに神の祝福があることを教えられた、との証をしておられた牧師がおられました。詩編30篇を通して教えられるポイントは、祝福は贖い主なる主と向き合う者に与えられるということです。
⑵ダビデは命を回復させてくださった主に讃美をささげます。「わたしを引き上げてくださいました。」(2)との言葉は、「水を吸い上げるように救ってくださった」との意味があります。どこからかと言うと、「陰府」、「墓穴」という言葉が続きます。それぞれ「死」を象徴する言葉ですが、そのような危機的状況から主は救ってくださった、と感謝をささげているのです。窮地から救われたダビデが見出した幸いは、主の慈しみに生きる点にありました。けれども彼はその罪の故に厳しい罰を主より受けましたが、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの朝を迎えさせてくださる」(6)と告白します。信仰と福音の原点は、「泣きながら過ごす夜」です。すなわち、己が罪に泣くことなくして、喜びの朝を向かえることはできません。
⑶私たちは何も問題がないと思える時、「わたしはとこしえに揺らぐことはない」と、信仰に生きていると思いがちです。しかし、そのように思っていたが実は不信仰であったと、ダビデは告白するのです。むしろ、驕り高ぶっていた自分に気付かされ、「主よ、わたしの助けになってください」と祈りをささげているように、ダビデは主のみを救いとする信仰者へと変えられていきました。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(12)と、ほめ歌をささげます。
「粗布」は、悲しみ、嘆き、悔い改めを象徴するものですが、喜びを帯とする者に変えられた喜びを告白します。ヴィクトル・ユーゴーの作品「ああ、無情」で出て来る罪人ジャン・ヴァルジャンは司教によって罪赦され、善を行う人間に変えられていきました。その司教は彼に対して、「あなたは神のものです。わたしはあなたの魂を神のために買い取ったのです。」と語ります。ここに贖罪信仰があります。