11月29日 礼拝説教概要

「イエス・キリストはあなたを待っておられる」 ヨハネの黙示録3章10~22節       
 
 主イエスは神の御子にも関わらず、人里離れたベツレヘムの田舎の町はずれに誕生され、生涯の終わりは人間に裏切られエルサレムの門の外で十字架に架けられました。神の御子主イエスは常に人間の外側、この世から疎外され追いやられる一生でした。 
 十字架とは人が神を拒絶する事ですが、それにも拘わらず私達の現実に共に生きようとされ、道を開く為に常に外側から私達の心の戸を叩いておられます(20節)。しかし、人は神に心を閉ざし拒絶し自分の中に閉じこもってしまうのです。この事を宗教改革者ルターは「自分の中に折れ曲がる姿」と表現し、人は何をしても最後は結局自分の為にと全てが自分に向かって折れ曲がっていると述べています。この自己中的な罪を背負って暗闇の中にいる人間を救い出す為に、イエス・キリストを送ってくださったのがクリスマスの出来事です。
 廻りの人々から嫌われ誰にも目に留められない取税人のザアカイに主は、「この人もアブラハムの子=神の民、愛されている神の子」と宣言されました。十字架の主の元で見捨てられる人は誰一人いません(ルカ19章)。戸の向こうには救いの道、天国への道が既に用意され開かれており、今も神は諦めずに全人類の為に外で戸を叩き続けておられます。
 
 救いの道は自分で切り開くものではなく、この戸を開けなくては何も始まりません。別の言い方をすれば救いの道は難しい事はではなく単純で、この戸を開けるだけで良いと言えます。18節に「見えるようになるために」とありますが「見える」とは、この世の有様を見る目ではなく、戸の向こうで成されている神の御業が見えるようになる為です。
 
 戸を開けつつ人は目が開かれて天の国・永遠の命の道に生き始め、平安と喜びを見出す事ができるようになります。19~21節には「私」と8回もイエス・キリストは御自身を主張されています。
 今年のクリスマスもイエス・キリストは私達が心の戸を開いてお招きする事を待っておられます。