「イエス・キリストにある未来」 創世記19章12~29節
神の使いはロトとその家族らに、人々の罪の為にソドムの町が滅ぼされるので「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。」と告げました。これは私達にも語られている事だと思います。後ろには今迄築き上げてきた人生の集大成がある訳ですが、後ろのものがどんなに素晴らしくとも、命を保障するものではありません。過去を振り返るなら良かれと思っている事でも罪が絡みついていない出来事はない筈です。
「なすべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る事です」(フィリピ3:13~14)と、罪ある過去を振り返らず、前方にある神の救いの約束を目指して前に向かって走りなさいと言われます。兎角、今という時を立ち止まって過去の栄光や失敗に思い巡らせて自分で自分の道を閉ざしてしまうものです。
旧約聖書はヘブル語で記されていますが、動詞の現在形は存在せず過去か未来しかありません。
今の瞬間が終わると全て過去の事となるわけです。今、立ち止まるのではなく、キリストが十字架に架かってくださった為に保障されている未来の永遠の命を得る為に、ひたすら前進する事が今の私達の成すべき事です。
過去に支配される位つまらない人生はありません。主イエスは「ロトの妻の事を思い出しなさい」と、後を振り返って塩の柱となったロトの妻の事を例に挙げて戒めておられます。どんなに素晴らしい過去であったとしても、反対にどんなに失敗しようが、言えないような罪があろうが、どのような人であってもキリストによって希望のない人はいません。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)と、主イエスを仰ぎ見る事を許されている私達です。
地上のものに心惹かれて失望するのではなく、現実から目を高く上げイエス・キリストにある未来を目指して参りましょう。
月: 2009年11月
11月1日 礼拝説教概要
「人生はレース」 ヘブル人への手紙12章1~2節
愛する家族や知人を天に送るという事は辛く悲しい事ですが時が癒してくれた、という経験を多くの方がされたと思います。しかし神を知っている人はその試練を受け止め乗り越え、明日に向かう力が与えられている事を知っています。悲しみの容量に対して神への望みが増し加えられて行きます。
神への望みとは主イエスが十字架に架けられ、その後復活された事によって、信じる者には永遠の命が与えられるという希望です。死の悲しみに打ち勝つには永遠の命の希望しかありません。
人生はマラソンレースに譬えられますが、マラソン選手はその沿道にて応援でサポートしてくれる人々がいます。信仰者をとりまく応援団は「このようにおびただしい証人の群れに囲まれて」(1節)とあるように、既にこの世のレースを終えて天に帰った信仰の先達者です。そして主イエスと共に私達の家族も「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて・・忍耐強く走り抜こう」(1節)と、励ましてくれています。
しかし私達は自分の罪や重荷を十分に知っており各自それを日毎負っている訳ですが「かなぐり捨てる」とはどういう事か、と問いたくなります。もはやその罪は自分の罪ではなく、重荷は重荷ではない事に気づかないといけないという事です。
イエス・キリストの十字架によって既に解決されているから自分で自分を苦しめている事柄、握りしめている事から目を離しなさいという事です。「忍耐をもって走り続ける」とは、この世での小競り合いのような苦しい戦いを忍耐しなさい、という事ではなく罪赦されている事によって、平安と喜びの中に入れられている事へ感謝できるかという闘いです。
主イエスによって葬られた過去の醜い自分をかなぐり捨てて、既に平安と喜びの中に入れられている事に心から感謝し、今という時を天国に結びつけてこのレースを走りきって参りましょう。
10月25日 礼拝説教概要
「執り成す人」創世記18章16~33節
罪と悪に染まったソドムの町を滅ぼそうとしている神にアブラハムは「本当に正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすのですか?」(23節)と、神の御心を知る迄、神の前に立ち続けました。彼は塵芥にすぎない者でも(27節)祝福されている事を確信していますから(18節)敢えて神に向き合い神の御心・神の決断を求めていきました(23~32節)。
大胆に神にしがみついて訴え、必死に執り成す事によって絶望の中から神の御声を聴き取っていったのです。神の御心は、一人でも正しい人がいるなら全てを滅ぼす方ではない、という事でした。
神は昔も今も変わらず「お前を見捨てることができようか・・怒りをもって臨みはしない。」(ホセア11:8~9)と、誰一人滅びる事なく全ての人が救われる事を願っています。
独り子イエス・キリストを十字架につけるまで私達を愛してくださり、全ての罪を赦し全ての人を救いの中に入れてくださいました。 そして主イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、私達が呪われないように執り成しの祈りを献げてくださり、今もこの執り成しによって全ての人々が支えられています。
このようにたった一人の正しい人、イエス・キリストによって全世界が今も救われ続けています。
イエス・キリストのようにアブラハム一人の存在を神は用いられましたが(19節)、約束の子供が与えられずに不信仰に陥った時もあり、すんなりここまできた訳ではありません。しかし、その試練から神にしがみついて、砕かれながら御心を聴き取っていく経験をさせて頂き、彼を執り成す者として成長させて頂いたのです。
私達も多くの試練の中で神と向き合って砕かれて、初めて御心を知る事ができるようになり、廻りの人々へ祝福の執り成し手としての役割を頂いています。その中に遣わされている私達である事を心に留め、用いられる事に感謝したいものです。
10月18日 礼拝説教概要
「見抜かれる主の目」 詩編139:1~24
⑴信仰者には最後の拠り所があります。それは「主は全てご存知である」ということです。何故ならば、「主は究め」、「知っておられ」、「悟っておられ」、「見分け」、「通じておられる」(1~2)に他なりません。この詩人の素晴しさは、神の御前にすべてをさらけ出している点にあります。このことは非常に重要な信仰姿勢です。
私達は主の御前には丸裸同然です。そのような者が奪われることのない平安をもって日々、生きられるということは大変な恵みです。そのためにも悔い改めるべきことはないか、清算すべき罪がないかが問われております。
⑵神はインマヌエルの主、どこにでも遍在されるお方です。「どこにでも主はおられる」、このことは、真に信仰に生きている者にとっては、大きな恵みであり、救いですが、不信仰な者にとっては恐怖です。何故ならば、神から逃れる先はないからです。故に常に罪を悔い改めているかが問われております。
⑶人間創造の神秘と背後にある恵み深い主に対する讃美が献げられております。主は、「御計らって」(17)くださるお方です。しかも「その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」と讃美します。ここに無限の神の恵みが、一人ひとりに注がれていることが歌われております。
⑷詩人の苦悩は最後に、神に対する祈りになります。彼は深い苦悩と憤りを覚えつつも、自分を見失うことなく、また生き様を失うこともありません。彼は「どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(24)との祈りへと導かれます。
「とこしへの道に導いてください」、これは信仰に生きる者にとっての結論です。星野富弘さんが「いちじくの木の下に行けばキリストの声が聞こえてくるようだ。『ザアカイ、急いで降りてきなさい。』教会に行けないから時々、いちじくの木の下へ行く、そしてザアカイのようにうなずいて帰ってくる」との詩を作りました。このいちじくの木はザアカイが愛され、受け入れられ、罪赦された特別な場所です。
私達にもいちじくの木があります。それは、主イエスの十字架です。御自身の命をもって贖ってくださった主イエスの愛と恵みを覚えつつ、主を信頼し、信仰をもって主が備えていてくださるとこしへの道を歩み続けましょう。