10月18日 礼拝説教概要

「見抜かれる主の目」 詩編139:1~24 
 ⑴信仰者には最後の拠り所があります。それは「主は全てご存知である」ということです。何故ならば、「主は究め」、「知っておられ」、「悟っておられ」、「見分け」、「通じておられる」(1~2)に他なりません。この詩人の素晴しさは、神の御前にすべてをさらけ出している点にあります。このことは非常に重要な信仰姿勢です。
 私達は主の御前には丸裸同然です。そのような者が奪われることのない平安をもって日々、生きられるということは大変な恵みです。そのためにも悔い改めるべきことはないか、清算すべき罪がないかが問われております。
 ⑵神はインマヌエルの主、どこにでも遍在されるお方です。「どこにでも主はおられる」、このことは、真に信仰に生きている者にとっては、大きな恵みであり、救いですが、不信仰な者にとっては恐怖です。何故ならば、神から逃れる先はないからです。故に常に罪を悔い改めているかが問われております。
 ⑶人間創造の神秘と背後にある恵み深い主に対する讃美が献げられております。主は、「御計らって」(17)くださるお方です。しかも「その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」と讃美します。ここに無限の神の恵みが、一人ひとりに注がれていることが歌われております。
 ⑷詩人の苦悩は最後に、神に対する祈りになります。彼は深い苦悩と憤りを覚えつつも、自分を見失うことなく、また生き様を失うこともありません。彼は「どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(24)との祈りへと導かれます。
 「とこしへの道に導いてください」、これは信仰に生きる者にとっての結論です。星野富弘さんが「いちじくの木の下に行けばキリストの声が聞こえてくるようだ。『ザアカイ、急いで降りてきなさい。』教会に行けないから時々、いちじくの木の下へ行く、そしてザアカイのようにうなずいて帰ってくる」との詩を作りました。このいちじくの木はザアカイが愛され、受け入れられ、罪赦された特別な場所です。
 
 私達にもいちじくの木があります。それは、主イエスの十字架です。御自身の命をもって贖ってくださった主イエスの愛と恵みを覚えつつ、主を信頼し、信仰をもって主が備えていてくださるとこしへの道を歩み続けましょう。