「決して忘れない約束」 創世記9章1~17節
「産めよ、増えよ、地にみちよ」(1節)と、創世記1章28節と同じ言葉が繰り返されていますが意味合いは異なります。罪ある人間を生かす為に、神がその罪を全て引き受けてくださり、私達が負わなくてはならない責任を神自ら担ってくださる、という新たな決意が込められています。その契約の印として虹を与えてくださいました。
虹を見たら神の祝福を思い出しなさい、という事ではなく、神があなた方の永遠の契約に心を留めてくださり、忘れないという事です。契約とは神からの恩恵で罪から全ての人を救い出してくださる行為です。偉大な伝道者パウロでさえ自分はどうしようもない罪人で、望む事は実行できずに憎んでいることをしてしまう(ロマ7:15)と、告白しているように「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8章21節)の通りです。誰もが同じ罪を繰り返し、何度も過ちを犯し続けますから神の恵みがなければ滅びるばかりです。恵みによって救われている私達です。
その恵みとは単なる愛とか思いやりというようなものではなく、神の苦しみ・痛みを伴った忍耐を指します。滅ぼす事は簡単ですが、愚かな人間を救い出したいという神の憐れみから、神自ら苦しむ事によって罪の責任を負ってくださいました。その象徴がイエス・キリストの十字架です。神は人のように偽る事なく真実な方ですから、既にキリストの故に「あなたを救う」と、心の隅々まで赦されている約束は確実です。自分の罪や不信仰に支配されずに、与えられた恵みを全身で受け止め、約束の言葉にしがみついていくのが信仰者の姿です。
信仰は微動だにしない確信みたいなものではありません。弱いなりに神に向き、迫って行けば良いのです。神の決して忘れない約束に対して、十分に応えられなくとも、それをも全てご存じで赦してくださっている神に精一杯感謝する事が、赦されている者の在り方ではないでしょうか。
月: 2009年8月
8月2日 礼拝説教概要
「神の涙」 創世記8章1~22節
試練の中でお手上げ状態になっても神を信じている者にはギブアップはありません。その中で必ず神が御心に留めていてくださり、御業を着々と進めていてくださっています。「あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)との如くです。
ノアは洪水の中、行き先見えずその大海原を漂うしかありませんでしたが神は御心に留めてくださり雨がやみ、水は地上から引いていきました(1~4節)。舟から出たら水に呑み込まれるだけですが、見守っていてくださる神を信じて舟の中に留まり続けた結果、気付いたら山の高い頂きに上げられていました(20節)。試練の中にあって神を信じ続ける時に恐れは取り去られ、経験した事のないような高い世界に引き上げられていきます。これが信仰の世界の素晴らしさです。こうして神が与えてくださる将来と希望の計画が成され人生は開かれて行きます。
洪水後のノアの新しい人生の一歩は祭壇を築く事から始まりました。救われた感謝と共に神の怒りを免れ審きを通って赦された感謝です。審きと赦しとは「人の心は悪い、根から悪いから呪わない」と、矛盾しているように思えます。良くなったから呪わないのではなく、根から悪いから呪わない、という神の痛みを伴った赦しです。罪から救う為に人に審きの痛みを負わせるのではなく、神が犠牲となって痛みを負う事以外にないという決意で、この言葉の背後にはイエス様の十字架があります。神の痛み・涙があるから私達は呪われる事なく「地の続く限り・・」(22節)と永遠の救いを保障されています。
私達の人生は春もあれば猛暑もあり、昼もあれば辛い夜もあります。しかしその全てが呪いではなく収穫に繋がっています。何の取り柄もない罪の中にいる私達を憐れんで収穫の実を結ぶようにと、今日も神の涙の命の中に引き入れられています。
8月9日 礼拝説教概要
「健全な言葉」 テトス1:1~15
⑴パウロはクレタの教会の人々を「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。」(1:16)と、実に手厳しい内容の手紙を書き送っています。当時のクレタの教会の組織はがたがた、教会員の生活は乱れ、年老いた男は不謹慎で、年老いた女は大酒の飲みで噂話に明け暮れ、若い女も怠け者で身持ちが悪いといった最悪の状態にありました。すなわち福音に生きているようでありながら、神の御心からは程遠い恥辱的な生活をしていた彼らの生活を憂いた内容の手紙となっております。そのような彼らに対してパウロは「健全な言葉を語りなさい」(1)と勧めます。
高齢者になってわがままになるタイプがあります。残された時間が余りないという焦りから来るのでしょうか。自己中心性、強引性の拍車がかかりつつも、そのような自分の姿に気付いていない人もおります。信仰者はむしろ逆です。主の御前に立つ日が近ければ近いほど、自己反省し、その生き様が変えられ、信仰の勝利をもって締め括るべきです。
焦りはどうして出て来るのでしょうか。それはこの世という尺度しか持っていないからです。けれども信仰者の尺度は、かの世につながるものです。
二千年のキリスト教会の歴史を振り返るならば、「神の御名」、「信仰の名」の下に罪を犯し続けてきた歴史でもあります。このことは一部の心無い人々、不信仰な人々だけの問題ではありません。私達自身の問題でもあります。何故ならば人は皆カインの末裔であるからです。
⑵パウロは信仰の根幹である主イエスが何故、御自身を献げられたかということに触れます。要点は二つあります。一つは「あらゆる不法から贖い出す」という神の御業であったこと。第二に「良い行いに熱心な民を御自身のために清めるため」であったと記します。
白洋舎の創業者、五十嵐健治さんは、波乱万丈の生涯を送られた方ですが、彼の生涯を「夕あり朝あり」という作品にした三浦綾子さんはあとがきで、こう記しておられました。晩年、五十嵐さんは訪ねて来た人の名前を忘れることがあったそうですが、「何もかも忘れましたが、キリストさまだけのことは、忘れてはおりません」と語られた逸話を紹介し、「この一言に五十嵐さんの信仰の純粋性を見るような気がする」と結んでおられました。キリストだけは残る者でありたい。
7月26日 礼拝説教概要
「進み行くノアの箱舟」 創世記7章1~24節
人は神によって極めて良く創造されましたが、神の愛に応答せず罪により地上に悪がはびこり、神は悪を審かざるを得ず洪水によって正しいノアとその家族、一対の動物以外全てを一掃されました。神は正しい方である故に悪を見て見ぬ振りはできません。愛なる神であると同時に罪は罪として審かれる神でもあります。洪水を決意されるには「正しさ」と「愛」の格闘であったでしょう。「死の恵み」という言葉があります。ノアの洪水も神の審きによって滅ぼされましたが、同時に神によって創造の全くやり直しで新しい人類の歴史が始まりました。
「洪水」は破壊と破滅をもたらすもので、人間の危機を象徴していますが混乱・混沌の中、ノアの箱舟は浮かんでいます。箱舟はそれらを避けたり守ったりするのではなく、試練の中、嵐の只中を貫いて行きます。水は次第に増して箱舟は押し上げられたように(17~20節)、試練を潜り抜けて高められる道が信仰です。人は多くの試練の中を潜って、高く押し上げられて変えられていきます。洪水の背後におられる神をひたすら信じる事ができる故に、洪水の中弱り果てる事はありません。そこにある神の支えと救いの深さを知っていますから、やがて水が引く事の確かさをそこで感謝できるのです。人は自然に成長するものではありません。洪水は私達を滅ぼすものではなく、育てられ高められるものです。
ノアの箱舟の戸は神が閉ざしてくださったので、大水は決して入ってきませんでした。そのように私達の今までの罪や恥を神の方でシャットアウトしてくださり赦し、試練の中でも私達は神と共に進んで行く事ができます「咎を除き、罪を赦される神がいつまでも怒りを保たれることはない」(ミカ7:18~19)自分の廻りにある洪水を恐れず、神が用意してくださった箱舟の中で生かされている事に感謝し、神が用意してくださった可能性を探って参りたいものです。