「後でわかったあの事」 ヨハネによる福音書21章1~14節
キリスト者は主イエスの復活について理解し認めただけでなく、日常生活に適応していく事が力となり、信仰生活に勝利を与えます。その事をポーロ・リースという説教者は人は握りしめられたこぶしによってではなく、しがみつく手によって得るものだと、述べています。自らの経験や知識等に固執せず、神の御手に飛び込む事ではないでしょうか。
弟子達は主イエスの十字架刑を目の当たりにして、生きてきた目標を失いかつて住んでいたガリラヤ湖に戻り、今迄の経験と知識に期待し漁師に戻って一晩中漁をしましたが、一匹も獲れませんでした。その時、復活の主が傍らに立ち「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)と声をかけてくださいました。すると引き揚げる事の出来ない程の大漁にも関わらず網は破れていませんでした(11節)。
主のお言葉を疑わずに従う者には、破れない網に象徴されていますように、復活の主の充ち溢れるほどの恵みと、引き裂かれない強さと能力が与えられます。
弟子達のように、私達は今迄の自分の経験や知識では乗り越えられないような暗黒の状況に置かれる時があります。しかしそのような究極の時だからこそ「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ。」という、主からの祝福のお声を聞かせて頂けます。それは自分の限界を超えた場所に身を置く事を可能にしてくださるという事を示しています。
人は何をするにも100%の確信はありませんが、自分の知恵や経験、失敗を超えさせて頂く為に復活の主イエスが傍らに立ち、豊かで確かな収獲を得る事ができるような命を与えてくださっています。弟子のペトロは主イエスを裏切る大きな罪を犯し失敗続きで、自分限界を見ていた事でしょう。しかし、復活の主の御声に聞き従い主イエスの証人となり、彼の大胆な説教で一日に3千人もの人が救われました(使徒2章)。この出来事は誰にも想像できない事でした。
復活の主の力とはこのように人の限界を超えた所で、後になってから分かるような仕方で現れます。私達もこの大いなる収獲に期待し、主イエスの御声に従って命の網を精一杯打ち続けて参りたいものです。
月: 2009年4月
4月12日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「涙が拭われる時」 ヨハネによる福音書20章11~15節
⑴「わたしは主を見ました」とのマグダラのマリアの証言をもって、世界の歴史は大きく変えられてゆきました。主イエスの復活は別離の悲しみに沈む人の涙を拭い、その悲しみを大きな喜びに変える救いの御業です。パウロは「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(コリント一15:17)と記しておりますが、もしキリストの復活がなかったのなら、キリスト信仰は過去の遺物になってしまいます。しかし、主イエス・キリストは死より復活されました。それがイースターの出来事です。
⑵信仰はキリストを求めて前進するものです。マグダラのマリアの前には墓を塞ぐ大きな石がありました。女の力では動かしようがありません。しかしキリストを求めて駆けつけた時に、既に石はころがされておりました。問題が解決されたからではなく、解決されぬとも、前進した時に既にその問題は解決されていたのです。
⑶主イエスは「なぜ、泣いているのか」と語りかけてくださるお方です。悲しみの果て声も出ない、失望の故に顔も上げることのできないわたしたちに、主イエスは声を掛けてくださる救い主です。そして信仰とは生ける主を信じることです。マリアは復活された主イエスを園丁と勘違いしてしまいました。私達が陥り易い間違いは、墓守のような信仰です。私達の信仰は死せる方ではなく、十字架に架かり、死より復活された生ける主イエス・キリストです。復活の主イエスは悲しみを喜びに、絶望を希望へと変えてくださるお方です。
4月5日 礼拝説教概要 佐々木良子牧師
「汚れた足を洗ってくださるお方」 ヨハネによる福音書13章1~11節
教会がこれまで語り続けてきた事は、イエス・キリストの十字架と復活です。この出来事によって私達の救い、喜び、平安、慰め、平安、生きる力、希望等、全てが与えられています。
「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)
主イエスが十字架にお架かりになる最後の晩餐の時、主イエスの愛が頂点に達しましたが、弟子達は主イエスを裏切る考えを持っていました(2節)。
このような問題を抱えた弟子達を神が自分に任された事を知って、主イエスは弟子達の足を洗われました。今、正に十字架に架けられようとする時に、彼らの問題を突き付けるのではなく、又「こんなに愛している」と言う事なく、黙って跪いて、奴隷の仕事である足を洗ってくださったのです。
人は問題点を指摘され、注意されたら変わるような者ではない事を、私達は自分を見ても分かるのではないでしょうか。罪人の何者でもない私達の救いの為に、主イエスが汚れた私達の足を洗う、という奉仕してくださるお姿を見せて頂く中で私達は変えられていきます。
「奉仕する」とは汚れ・埃をくぐる、という意味ですが、埃を避けて綺麗な空間ではできない業です。時には傷つき、痛み、汚れる事がありますが、それだからこそ、そこに真実があると言えます。
ペトロはこの事を悟る事ができず、足を洗われる事を拒みましたが、この事によってのみ、主イエスと繋がっている事を後で知る事になります。私達は神との関係を結ぶ事においてのみ、価値ある者で、且つ尊い存在であります。神から離れた人間は何者でもありません。主イエスがこの上なく私達を愛してくださっておりますから自ら十字架にお架かりなり、全ての罪を赦してくださり「あなたは高価で尊い」と語りかけてくださっています。
関係がなくならないように、主イエス自らが汚れて私達の足を黙って洗って私達をつかんでいてくださいます。この関わりがあるからこそ、私達は神と結ばれて、かけがえのない命に生かされている事に心から感謝いたしましょう。
3月29日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
「この世からあの世へ」 ルカによる福音書7:11~18
主はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくともよい」と言われた。
目の前の愛する者を失った時、絶望と喪失感に襲われ、闇の中に葬られるような思いになり、自分の人生も終わってしまったように思いがちです。
しかし「もう泣かなくともよい」「死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14~15節)とあります。悲しみの中に生きている者に声をかけられ、尚も生きるように支えてくださり、死んでしまった者に手を触れてくださって再び起き上がらせてくださる、主イエスが私達の傍らにおります。私達はこの奇跡を疑ってはなりません。死者の甦りを見る事ができる目を私達は既に神様から与えられております。闇のようなどん底の中に、命に至る道が貫いている事を示してくださる為です。
私達の人生の数えきれない喜びや悲しみの刻まれた大切な命が、どこかに消えてしまう事がない為に、そのかけがえのない大いなるものとして、私達の命があり続ける為に、主イエスご自身の全存在をかけて十字架上に死んでくださり、そして復活されたという事実を聖書は示しております。その為に私達は死んでもこの息子のように甦る事ができ、永遠の命が保障されています。私達の信じる思いと主イエスの愛によってその奇跡は現れます。
永遠の命は死んでから後にあの世で与えられるものではなく、キリストを信じた途端にこの地上で既に与えられています。永遠の命とは限りなくいつまでも生きながらえる長寿ではなく、キリストと結ばれてその命に生かされる本来あるべき人間の姿であり、完全な命とも言えます。
キリストと結ばれている私達は、現在既にあの世への途上を歩んでいる最中です。今、その永遠の命に生かされているという実感はおぼろげにしか分かりませんが、やがて天国に移された時にはっきりとその目で確かる事でしょう。そこにはもはや死も悲しみも嘆きも労苦もなく(黙示録21:4)既に召された家族・知人と再会する喜びがありますから、その恵みをこの世において先取りしつつ、あの世で完成する時の恵みを見据えてこの今の時を尚、希望を持って歩んで参りましょう。