一つの無駄もない

使徒言行録21章37~22章5節

澤田直子師

 ローマの千人隊長は、パウロにギリシャ語で話しかけられたことに驚き、ユダヤ人への演説を許可します。パウロの姿に神の光を見たのか、ユダヤ人が鎮まると、今度は、パウロはヘブライ語で話し始めます。それはかつてパウロがキリスト教の迫害者であったというものでした。パウロは手紙の中でも何度か自分の過去について書いています。この時すでに大伝道者、使徒の一人として名前が知られ、大勢の弟子もいたパウロですが、自分が迫害者であったことを、様々なところで語り続けます。なぜでしょう。
 パウロは、イエス・キリストに出会ったならば、どのような過去があったとしても、それは何一つ無駄にはならないことを言いたかったのではないでしょうか。パウロ自身は、自分の来し方について「塵あくた」とまで言っていますが、実のところ、パウロが誰よりも熱心に律法を学んだことは、決して無駄にはなりませんでした。ローマの信徒への手紙の前半において、パウロは律法の完全遂行こそが救いであると信じていた時の苦しさを例に出して、福音こそが神のご計画の完成であり、真の救いであることを立証します。イエス様が御自分を「律法の完成者」と言われたことを、証明してみせたのです。律法を極め、なおかつ福音に救われたパウロだからこそできたことでした。
 全世界のキリスト教信徒が、時が良くても悪くても、御言葉を言葉と行いとで表し、主に用いられることを願って働きを捧げています。しかし、わたしたちは人間ですから、時には実りがないように感じて力を失ったり、同労者同士でも嫌な思いをすることがあるかもしれません。働くこととつまずきはセットです。歩かなければつまずかないのです。しかし、わたしたちには、御言葉が与えられています。神に出会った者には、何一つの無駄もないことを心に留めましょう。パウロはこう言います。第一コリント15章58節 『わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているからです。』