十字架の死に至るまで

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

佐々木良子師

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6~8節)
 イエス・キリストの謙遜、遜りのお姿です。主イエスのご生涯は徹底した遜った人生でした。その目的は「・・・主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)と、私たち人間が豊かになるためと記されています。「豊かになるため」という事は、豊かではないということです。
 私たちの人生を振り返りますと、人は豊かな人生を求めて生きています。凡そ下に降る人生を人は求めないでしょう。上に、上にと少しでも今の状態より、上に昇る人生を求めながら生きています。それが豊かな人生を送ることができる道と考えがえるのが私たち人間です。しかし、神は「それがあなたたちの貧しさだ」と仰せになります。
 ふと立ち止まって考えてみるなら、私たちが求めるものは、全て自分中心の事柄ばかりです。人の幸せを願うよりも私が幸せになることを。人の痛みを知ろうとするよりも私の痛みを分かってもらいたいと。挙げればキリがありません。恥ずかしいことだらけです。「何事にも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(3~5節)自分を守り、自分が豊かになることを求めるような貧しい私たちに、人のために生きるようとすることが豊かな人生だと神は仰せになります。
 イエス・キリストの遜りのお姿は、罪深い人間に対する神の赦しと神の愛そのものです。罪人である私たちを深く憐れんで、救ってくださる神のご意志に従うために、十字架の死まで従順に従われ、その命を与えてくださいました。取り返しのつかない私たちの人生を救うために、主イエスは不当な裁きを受け十字架に向かわれたのです。そうして十字架上で神のイエス・キリストの贖いが成し遂げられました。十字架の主イエスのお姿は私たちの傲慢な心を砕き、自分のことしか考えない人生を、隣人を愛し、神に感謝する人生へと変えてくださるのです。