故郷を探し求めよ

ヘブライ人への手紙11章13~22節

澤田直子師

主題聖句 「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」 ヘブライ人への手紙11章16節a
 ヘブライ書11章には旧約の信仰者が続々と書き表されるので、「信仰者列伝」と言われます。しかしここに出てくる人たちは、信仰を抱いて死んだ、地上では約束されたものを手に入れなかった人々なのです。聖書では、わたしたちはこの世に仮住まいをしていると考えます。仮住まいですから戸惑いや不自由があります。気が許せない、くつろげないこともあるでしょう。
 アブラハムは直線距離でも1000キロ以上ある旅をして、全く知らないカナンの地に移ってきました。アブラハムもイサクもヤコブも天幕暮らしでした。彼らが神様に従ったのは、天に帰ることが本当の故郷に帰ることだと信じていたからでしょう。故郷という言葉は、普通は出身地や長く暮らした場所、自分の体や心の一部を作り上げている場所を表すと思います。帰って行く所であり、探す所ではありません。けれどもアブラハムたちにとっての故郷は、熱心に探し求めて、生きるという旅が終わって最後に帰るところでした。
 この手紙の宛先のヘブライ人たちも同じでした。エルサレムは遠く、正統な祭司もおらず、知っている範囲で律法を守り、それで神の国に入れるのかと不安を抱いていたでしょう。そこに福音が告げ知らされ、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」と教えられたのです。
 地上からは、神の国の門を見ることも入ることもできません。けれども信仰者は、門があることを知っていますし、イエス・キリストの十字架の贖いという鍵を持っています。わたしたちには、どんな故郷よりも優れた、本当に懐かしい故郷があります。探し求めましょう。イエス様は「探しなさい。そうすれば、見つかる」と教えてくださいました。天の故郷を仰ぎ見て地上の生活を誠実に歩み、故郷を探し求める旅路に、主がいつも共にいてくださいますように祈りましょう。
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約束は真実である

ヘブライ人への手紙11章1~12節

澤田直子師

主題聖句 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 ヘブライ人への手紙11章1節
 ヘブライ書11章は、旧約聖書の人物とその生き方を次々に示して、信仰者の姿を思い起こさせます。11章の最初に出てくる「信仰」という言葉は、世で使われる意味と教会で使われる意味とはかなり違います。有名な神社やお寺で神妙に手を合わせることを「信仰」とは言いません。クリスチャンにとって、祈ること、賛美することは、誰に向ってするのかがとても重要なのです。祈りの初めは必ず、唯一のまことの神様への呼びかけです。
 1節はわかるようでわからない御言葉です。「望んでいる事柄」とは何でしょうか?わたしたちは、神様に祈る時、もちろん自分の願いを聞き入れてほしいと思いますけれども、自分の力の及ばない事柄に関しては、どこかで覚悟を決めて「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのではないでしょうか。そこに確たる信仰があって、神に信頼するからこそ、先が見えない時も試練の時も委ねて祈ることができます。それが「望んでいる事柄を確信」するということです。
 「見えない事実を確認する」これは矛盾をはらんだ言葉です。これを説明するために、著者は創世記の天地創造を取り上げます。「光あれ」から始めて、神様はその力ある言葉で世界を創造されました。ここで最も心を留めたいのは、創世記1:31「見よ、それは極めて良かった」という御言葉です。神様が完璧に造られた、これ以上ないほど素晴らしい世界が一度はあったのです。
 イエス様は、ルカ17章で「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と教えられました。神の国はあり、わたしたちは十字架の贖いによって神の国の住人となる約束が既になされている。これは事実です。約束とは、まだ現実にならない時になされるものです。そして、約束が守られるという確信は、約束をした相手への信頼にかかっています。神様の約束は真実です。心を安らかに信頼しきって、世を歩んでいきましょう。
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神の約束に従って

ヘブライ人への手紙10章26~39節

澤田 武師

主題聖句 『だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。』 ヘブライ人への手紙10章35~36節
 ヘブライ人への手紙は、迫害から逃れるためにユダヤ教に戻ろうとする誘惑を受けている信仰者たちに宛てた手紙です。著者は、既に「故意」に礼拝から、信仰者の交わりから、イエス様から離れている者たちに、「警告」を与えます。
 「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。」イエス様の弟子であったペトロとユダ。ペトロは三度イエス様を「否認」しましたが、彼はイエス様から離れませんでした。弱さ故の罪。彼の罪は赦されました。後、使徒として用いられました。ユダは、イエス様をこの世に「指し示し」ましたが、自らをイエス様に委ねることはしませんでした。彼は故意に罪を犯しました。彼の罪は赦されることなく、自ら命を絶ちました。
 私たちにも、信仰の戦いはあります。信仰をもったからと言って、毎日が順調で、全てが願った通りになることなどありません。また、自分自身を振り返れば、決して完全な信仰者であるなどとは言えないことをよく知っています。
 「あなたは罪赦されていると確信していますか。」信仰をもつ者に迫る声です。著者は、罪赦された者として生きる「励まし」を与えます。
 「確信」を捨ててはいけません。「確信」とは「信仰」とも「大胆」とも訳すことができる言葉です。「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」それは、全き信頼をもってイエス様を信じて行くことです。神様はイエス様の十字架を通して、罪赦された者との確信を私たちに与えてくださいました。
 どんな困難があろうとも、神様に委ね歩む。忍耐は信仰を成長させます。罪赦された者の確信です。どうか、イエス様が開いてくださった神様への道を、確信をもって大胆に歩んで行けますように。讃美歌448「みことばにしたがいて、われらも今はつよし」
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わが民は平和に住む

イザヤ書32章15~20節

澤田 武師

主題聖句 『わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう。』 イザヤ書32章18節
 イザヤの目には、混沌とした世界が見えます。私たち人間は争い、破壊し、混乱を引き起こします。また、知らずに他のものの命を脅かし、その心身に傷を与え、差別をしてしまいます。「愚かな者は愚かなことを語り その心は災いをたくらむ。神を無視し、主について迷わすことを語り 飢えている者をむなしく去らせ 渇いている者の水を奪う。ならず者の手管は災いをもたらす。彼は謀をめぐらし 貧しい者が正当な申し立てをしても 乏しい者を偽りの言葉で破滅に落とす。」(イザヤ32:6~7)イザヤはそのような混沌の現実の中で、預言者の使命を与えられて、神に生かされています。
 『平和聖日』は、世界平和のため、核兵器止の禁止のために祈る日です。日本は唯一の被爆国として、平和憲法を定め、戦争の酷さを伝えてきました。
 今年の「平和聖日」を迎えることは、特別な思いがあります。超大国の指導者が、世界に向けて核兵器の力を見せつけました。ウクライナでの戦争は、核戦争の脅威を感じさせます。世界の滅亡、これから世界がどのようになるのか、今、世界は不安の中にあります。私たちの祈りは、争いが終わりすべての者が「平和」に生きることを求める「祈り」となっていきます。
 イザヤの預言を改めて読み直しますと、今も同じであることに気づきます。愚かな者が支配し、虐げられた者たちは、虚しく今までの生活を捨て、安全な場所へと逃げて行きます。何時の時代でも現実は変わりません。
 イザヤはこの中で、神様から「平和」の預言を与えられました。それは今、私たちにも与えられた神様の御心です。しかし今、世界は、神様の霊ではなく、怯え、逃げ惑う人々の姿、恐怖と怒りで覆われています。昨日までの日常は、あっというまに消え去ります。
 「わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう。」神様は私たちに、「平和の住みか」を与えてくださっています。どうか、住民として末永く住むことが適いますように。世界が平和の住みかとなりますように。
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