平和の王を迎える

イザヤ書11章1~5節

澤田直子師

主題聖句 「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」  イザヤ書11章2節
 旧約聖書には数多くの救い主預言がありますが、質量とも圧倒的なのはイザヤ書です。イザヤは7章14節、9章5節でも救い主の到来を預言しています。エッサイの株とは、ダビデの血筋を意味します。当時の超大国アッシリアが倒れ、何もなくなった荒れ野に小さな芽が出る。誰も気づかないところで、新しい事が始まっている、そういうイメージです。
 知恵と識別とは、豊富な知識とそれを正しく使う力、思慮と勇気とは、政治的な駆け引きに長け、軍事的なリーダーシップを発揮することです。その上で「主の霊が留まる」。これはイスラエルの王の必須条件です。真のメシアであるイエス様は、『主を知り、畏れ敬う霊に満たされる』満たされているのですから、他のものが入り込む余地はありません。
 『真実をその身に帯びる』ウェスレアン神学事典には、「真実とは、真理に対する態度が誠実であること」とあります。イエス様はご自身を「道であり、真理であり、命である」と言われました。真理であるご自分の姿から逃げることがなかったのです。贖いの神の小羊。癒し主。世の光。十字架の死。そういう、御自分に求められた姿から一歩も引かず、神様の御計画を全うされました。
 イエス様のお誕生からして、当事者であるマリアとヨセフにとっては、いっそ災難と言ってもいいような出来事でした。そういう事どもを全て引き受けて、イエス様は、一方的な、無条件の愛をもってこの世に来てくださったのです。それは、わたしたちが、自分が作る平和ではなく神の平和をいただくためでした。
 クリスマスは、神の平和の始まりです。イエス様がこの世に来られた時、喜んで迎える部屋はありませんでしたが、今、わたしたちの心の内はどうでしょうか。黙示録3:20『見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って・・・以下略』戸口に手をかけて、イエス様をお待ちしましょう。
📢音声

霊の実を求めよ

ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節

澤田直子師

主題聖句 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」 ガラテヤの信徒への手紙 5章22~23節
 ガラテヤ書5章の主題は、信仰者はキリストの愛により、十字架の贖いによって自由である、ということです。それは物事が自分の思い通りに運ぶ自由ではなく、どのような中にあっても希望を失わないことを選ぶ自由です。
 16節から、肉の導きと霊の導きとを対比させて、信仰者が目指す道を示します。ガラテヤの信徒は真面目に善い実を結ぶ方法を求めていました。そこに律法主義のユダヤ人が来ると、その教えを真に受けて福音から律法へと逆進してしまいます。ここでパウロが言う「肉の欲求に負けてはいけない」というのは、人間の知恵と力に頼ろうとする過ちを指していると思われます。
 19節から並べられる悪の数々は、人間が陥りやすい4種類の誘惑です。性的誘惑、偶像崇拝の誘惑、兄弟愛を壊す誘惑、不摂生。旧約聖書にも、これらの誘惑に負けた人々の話がたくさん記されています。人間の知恵と力でこれらの誘惑に打ち勝つことは大変に難しいのです。
 22節からの霊の結ぶ実は、9つ並列ではなく1対8です。最初の「霊の結ぶ実は愛」によって、後の8つの実が現れます。神は愛ですから、神の霊が内に住むことによって、わたしたちもまた愛の実を結ぶ者となり得ます。しかし神様の愛を自分という肉を通して表すことは難しいのです。そのために、十字架が掲げられています。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」罪の根が十字架で死んでしまった後に残るものは、神の愛と、わたしたちの弱く貧しい体です。
 第二コリント12:9「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」この御言葉に依り頼んで、主にしっかりとつながりましょう。わたしたちは、内なる神の霊により、善い実を結ぶ意志と力を与えられています。神様は、わたしたちを通してどのような実を実らせてくださるでしょうか。主の導きに希望を持ち、霊の導きに従って前進していきましょう。
📢音声

祝福に招かれる

マルコによる福音書10章13~16節

澤田 武師

主題聖句 『命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。』 詩編104編33節
 10章には3種類の人々が出てきます。ファリサイ派の人々はイエス様を試すために、そして金持ちの男は、永遠の命の存在をイエス様に問うために、イエス様に近づきます。イエス様は彼らの訪問を拒まず、祝福へ迎え入れようとされますが、彼らはイエス様のお招きを断って帰って行きました。
 もう一組、有名なラビであるイエス様から、祝福を祈っていただくために、子どもたちを連れてきた人々がいました。しかし弟子たちは、彼らを叱り、イエス様に近づくことを阻みます。ユダヤでは、子どもは“律法に関しては無知であり、それゆえ、律法に照らして神の前に功績を持ち得ない者”と考え、祝福を受けることから除外された者と見られていました。そこに加えて、忙しいイエス様を煩わせたくないという、弟子の心配りがあったかもしれません。
 マルコは、その時イエス様が“憤られた”と記しています。子どもを思う親の気持ち、祝福を願う親の気持ちをイエス様は十分に察しておられました。それゆえに、イエス様に近づくことを拒んだ弟子たちの行いに対して、激しい怒りを覚えられたのです。
 それが、弟子たちが思うイエス様への労りの心からの行動であっても、祝福に近づくことを妨げる理由にはならないことを、イエス様は示されました。
 そして、イエス様は、“神の国”は“子どものような者たちのものである”とも言われます。ただ神様の愛にすがる者、自らの努力に期待するほどのものはなく、神様の愛により頼むほか生きてゆく術を持たない、幼い無力な者たち。そのような者たちこそが神の国に招かれている、と示されます。
 イエス様は子どもたちを、招き入れ、抱き上げ、手を置いて、祝福を祈られました。その時、子どもたちへの祝福は、連れて来た大人たちに対しても祝福となったでしょう。イエス様はすべての者を祝福に招いてくださっています。私たちもイエス様の祝福によって、神の国へと招かれている者です。
📢音声

永遠の命を得るため

ヨハネによる福音書3章1~15節

澤田 武師

主題聖句『それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』 ヨハネによる福音書3章15節
 私たちの地上の命は神様から与えられた祝福です。「信仰」とは、神様の御許で永遠に生きる続ける希望があると信じることです。私たちの命は、この地上だけで終わるのではなく、永遠に続くものであると信じ、それと同時に、今、生かされている私たちの肉の命は皆ひとしく有限であり、必ず神様の御心によって死を迎える日が来ると知ることです。
 「聖徒の日」記念礼拝では、かつて礼拝に共に招かれ、既に天に凱旋されて「聖徒」と呼ばれる「信仰者」の方々と共に、礼拝をお捧げします。
 「信仰者」という名前は、私たちが最初から持っている名前ではありません。イエス様と出会ってからの名前です。それは、十字架の死と復活を信じ、罪赦され、永遠の命に向かって、生かされて歩む者たちの名前となっています。再会の希望に生きる者の名前です。
 「ファリサイ派に属するユダヤ人の議員」、ニコデモの肩書は、ユダヤ人社会では敬虔な信仰者のしるし、権威ある者の証でした。しかし、彼は満たされない思いから、人目につかない夜にイエス様を訪ねます。イエス様はニコデモに、新しく生まれることを教えます。それは律法を守ることではない。ただ神様を信じること。行いによって救われるのではないと迫ります。
 この夜の出来事は、ニコデモの生き方を変えました。聖書はイエス様のご遺体を葬った2人の人物のうちの一人を「ある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と紹介しています。ニコデモは、誰も葬り手のないイエス様のご遺体を墓に納めようとします。彼の行動は、イエス様と出会い、信じ、そして、新たに生まれ変わった者としての証となりました。
 「聖徒」の方々が一番望んでおられるのは、地上に残された者がイエス様を私の主と受け入れ、十字架の「復活」による永遠の命を希望と信じて、それぞれの人生を歩み続けることです。「信仰」に生きる者と変えられて、主の身元でいつか再び会うことです。
📢音声