平和があるように

ヨハネによる福音書20章19~23節

澤田直子師

主題聖句 「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」 ヨハネによる福音書20章21節
 弟子たちが閉じこもった部屋の中でイエス様に出会ったのは、復活の日の夕方でした。その日の朝早く、女性たちが空の墓を見て天使の言葉を聞いているので、弟子たちはイエス様の復活を知っています。それでも、彼らがユダヤ人を恐れる気持ちは強かったのです。その真ん中にイエス様が立ち「平和があるように」と言ってくださいました。
 創世記の初めの「光あれ」を思い出させます。彼らの心は混沌であり、暗闇でした。そこに光がありました。また、イエス様が息を吹きかけられたのも、神がアダムの鼻に命の息を吹き入れられたことを思わせます。創世記2:7「人はこうして生きる者となった。」主の復活は、新しい創世に他なりません。イエス様のお言葉を聞いた弟子たちはどんな気持ちだったでしょうか。
 恐れから閉じこもっていた弟子たちに、イエス様はもう新しい使命を与えます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」かつてヨシュアは、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」との神様の御声を聞きました。
 コヘレト1:9「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる」わたしたちが遣わされることは、初めて起こるのではありません。昔から大勢の人が、主の御声を聞き、新しい命をいただいて変えられ、主に遣わされて、仕事で、家庭で、遣わされた場所で、神と人に仕える道を歩んだのです。既にお手本は示されています。
 天の父がイエス様を信頼して送り出し、イエス様は完全な従順をもって従いました。そのように、弟子たちを、わたしたちを遣わす、と主は言われます。遣わされ行く者として、主の平和を求めましょう。わたしたちも復活の主に出会って変えられましょう。インマヌエルの主が共におられます。
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わたしは主を見ました

ヨハネによる福音書20章11~18節

澤田直子師

主題聖句 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」 ヨハネによる福音書20章18節

 その朝、マリアが見たものは、空になった墓でした。マリアは自分の知識と常識で、イエス様のご遺体がどこかに持ち去られてしまった、と思い込んでいます。そして、何をどうすれば良いかわからず、ただ途方に暮れて泣くだけです。
 どの福音書でも、天使が現れたのは女性たちに対して、でした。なぜ弟子たちには現れなかったのでしょう。それは、福音の恵みがただ神によってのみ与えられるものだからです。ルカの福音書14章の宴会のたとえで、イエス様は「お返しのできない人を招きなさい」と教えられました。最初からへりくだる必要さえない、貧しく低い者、福音をただ受け取ることしかできない者が、復活の主に最初に出会う者として用いられました。
 マリアは、イエス様に話しかけられてもまだ「死んだイエス様」を求めます。そこでイエス様は「マリア」と名を呼びました。イエス様がその名を呼ぶのは、その人の全てを知っていてなお受け入れ愛しているしるしです。マリアは主に養われる羊にふさわしく、その声を聞き分けました。「すがりつくのはよしなさい」マリアは今までのイエス様との関係が続くことを期待しましたが、復活は「今まで通り」を続けるためではありません。ここからのイエス様の使命は、天の父の右に座って、信仰者に聖霊を送り、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることです。
 マリアにはイエス様のお考えはおそらく分からなかったでしょう。それでもマリアは忠実に弟子たちに「わたしは主を見ました」と伝えます。女性がどんなに簡単な裁判でも証人として認められなかった時代に、ヨハネは、マリアの証言を記しました。
 わたしたちも「わたしも主を見ました」と証ししましょう。
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復活-見て、信じた

ヨハネによる福音書20章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」 ヨハネによる福音書20章8節
 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)ヨハネはイエス様が復活された朝、復活の証人として呼び集められた者たちを記しています。
 週の初めの日、まだ日が昇る前の薄暗い中に、マグダラのマリアは戸惑いの光景を見ます。墓の入り口を塞いであった石が動いている。マリアは、イエス様を尚も辱めようとする者たちが墓を開けて、既にイエス様は持ち去られてしまったと思い込みました。
 彼女は、二人の弟子たちの元に急ぎ行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と、伝えます。彼女の言葉は、人間の理解の限界を現しています。  
 墓が開いている、それがマリアには、イエス様が復活された証しであるとは分かりませんでした。イエス様は、既に墓の中には居られません。神様が復活させてくださったのです。「わたしたちには分かりません。」マリアの言葉は真理を現わしています。神様の御業を、私たちは全て理解することは出来ません。
 二人の弟子たちは、マグダラのマリアの言葉を、確かめるために墓へと走って行きます。弟子たちもイエス様の復活の証人として、再びイエス様の元へと引き寄せられた者たちです。
 ヨハネも、ペトロも墓の中に亜麻布が、整然と「置いてある」、「墓の中が空になっている」ことを見ます。ヨハネ自身の証しとして、空の墓、残された亜麻布は、イエス様が復活された証しとして「見て、信じた」と記しています。  
 では私たちは何を見て、何を信じたのか。イエス様の復活を知った故に、豊かな人生へと変えられた方々が、大勢いらしゃいます。私たちは、イエス様が復活されたことを、感謝し喜ぶ者として、イエス様に引き寄せられた者です。私たちは、もう一歩イエス様に近づこうではありませんが。しっかりとイエス様を見上げ、もう一度「見て、信じた。」と告白する者となりましょう。
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そこにイエスを納めた

ヨハネによる福音書19章38~42節

澤田 武師

主題聖句 「その日は、ユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」 ヨハネによる福音書19章42節
 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)イエス様の十字架予告です。既に弟子たちは近くにはいませんでした。そこに「アリマタヤのヨセフ」と「ニコデモ」が現れたことが、イエス様のお言葉が成就されたことを意味しています。彼らは、イエス様を埋葬するために用いられ、イエス様の死を証詞するために備えられた者たちでした。
 「アリマタヤのヨセフ」は、イエス様の弟子であることを隠していました。「ニコデモ」は、ファリサイ派の議員でありながら、夜分、こっそりとイエス様を訪ねたことがあります。恐れのため、保身のため、彼らはイエス様への信仰を今まで言い表すことができませんでした。「アリマタヤのヨセフ」はピラトに、イエス様の亡骸を取り降ろしたいと願いでます。すべての後始末に関わらずに済むと考えたピラトは、彼らに許可を与えます。
 この時にはまだ誰にも分かりませんでしたが、彼らの行動は、新しい時代、福音を開くカギとなりました。彼らはイエス様の死を受け入れました。彼らが葬りのために備えた新しい墓、亜麻布は、イエス様が復活された時、空の墓となり、不要の亜麻布となって、主の復活を証ししました。
 ヨハネは、近くに墓があったので「そこにイエスを納めた」との言葉でイエス様の受難の描写を終えています。それは全ての終わりを意味しています。人間が理解できるのはここまでです。
 私たちには、イエス様がどのように復活されたのかは決して分からないと思います。それは神様の領域です。私たちが唯一証しできるのは、イエス様をお納めした墓が空であったことです。復活はただ信じるだけです。イエス様を納めた墓から復活は起こりました。私たちはただそれを信じます。死をも打ち破ってイエス様は復活してくださったのです。
 復活のイエス様にお会いしましょう。私たちの受難週、私たちもイエス様の死と復活を証詞する者として、歩んでまいりましょう。
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