御業は慈しみを示す

詩編145編

澤田直子師

『人々が深い御恵みを語り継いで記念とし 救いの御業を喜び歌いますように。』 詩編145編7節
 四重の福音の最後、「再臨」を語ることは至難の業であると思います。なぜなら、新生・聖化・神癒とは違って体験することができないからです。再臨について、イエス様は天に帰られる際に弟子たちに教えておかれました。イエス・キリストは再び来る、しかしその時は誰にもわからない、ということです。その日はこの世界の終わりの日であり、同時に新しい神の国の到来の日でもあります。
 詩編の最後の方は「ハレルヤ詩編」と呼ばれるほど、明るく高らかに神様の御業を歌いあげていますが、これらの詩編が実際に神殿で歌われていたのは、初期ユダヤ教が成立した頃、イスラエルは他国に支配されていて、よりどころとなるものは、信仰だけという時代の事です。どう頑張っても、一生懸命に働いても学んでも、人生の行く先に希望を見出すことが難しい時代でした。わたしたちが生きる今という時代も、豊かではあっても希望を見出すことが難しいかもしれません。
 今、全国どこでも「信仰の継承」を課題としている教会が数多くあります。しかし誰よりも神様が、その人の救いを望んでおられるのならば、わたしたちは、種が蒔かれたかどうか、そこに集中すればよいのではないか、と思います。
 神様が信仰者のゴールと定めておられるのは、洗礼を受けて教会員になることではありません。再臨の日に、喜ばしく、額に神の名を記されて神の御前に立つかどうか。わたしたちが目指すべきゴールはそこにあります。
 詩編145編は、神様は素晴らしい、ハレルヤ、と単純に賛美するだけの詩ではないと思います。人間は弱いですから、痛む時苦しい時に、ハレルヤと歌いつつ歩むことは難しいのです。しかし、どのような人も、何一つ無理せず、我慢せず、頑張らなくても、心からハレルヤと賛美できる日が来る。それが再臨の日です。祈り待ち望みましょう!
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一人一人に手を置いて

ルカによる福音書4章38~41節

澤田 武師

主題聖句 『イエスはその一人一人に手を置いていやされた。』 ルカによる福音書4章40節b
「四重の福音」三つ目は「神癒」です。説教の参考にさせていただいた文献では「神癒」とは「私たちの直接的な必要、肉体の病、またさまざまな苦しみ、傷みを主によって癒していただく恵みのことです。」と。また、「癒し」の恵みは、「肉体の病気とう狭い概念でとらえてしまう傾向があり、それがすべてになることさえあります。それは間違いです。」と、記されていました。
(太字引用 東京聖書学校論集「四重の福音」久多良木和夫師)
 神様は天地創造の時に、お言葉をもってこの世界を、秩序を創造されました。聖書では、シモンの姑が苦しめられていた病を、イエス様はお言葉により癒されました。彼女は病から解放され、健康な体へと変えられました。また、「いろいろな病気で苦しむ者」にイエス様は一人一人に手を置いて、癒されます。
 私たち人間は、神様が御自分の姿に似せて創られ、直接、命の息を吹き入れられて人となりました。一連の神癒の業は、神様が健康な体としての秩序を再び創造し、病の癒しを通して創造の奇跡を示してくださったということです。
 病の癒し、それは私たちが最も求めているものではないでしょうか。そのため、人間は努力を重ねて、知恵を絞り、不可能を可能にしてきました。その結果として、神癒の恵みほど意見の分かれる教理はありません。極論として、病の癒しに医学を否定する人、また、神様の業を認めない人もいます。正反対の意見を聞きますが、これは両者とも間違いです。
 私たちの体には免疫力、回復力、治癒力が備わっています。それは健康な体を維持し、また病から身を守ります。さらに、薬や手術といった治療行為は、私たちの弱った体を元へと戻します。
 神癒の恵みは、困難な問題や、病に悩む時に、神様の助けを求めて解決の道をいただくことです。そこに人の知恵としての医療を通して、助けをいただくこともあります。
 私たちの体の弱さ、心の弱さ、そのすべてに神様は癒しの御手を伸ばして、私たちを包んでくださいます。その御手にゆだねた時に、体の痛みから、苦しみからも、解放されます。はっきりと表される神様の御手です。
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御前に立たせてください

詩編41編

澤田直子師

『どうか、無垢なわたしを支え とこしえに、御前に立たせてください。』  詩編41編13節
 この詩編からは、神の忠実な僕であった誰かが、病になり、そのために信頼していた人々からも冷たい仕打ちを受けて、しかしどこまでも神を信頼して祈り、感謝する、そのような人物像が浮かんできます。
 四重の福音の2つ目は「聖化」です。聖書では「聖」という言葉は、分離する・別にする、という意味を強く持っています。それは、神様に献げるものを別に取り置くところからきています。ですから、人間に対して「聖化」という言葉を使う時は、その人が、生きた聖なる供え物として神に奉げられるにふさわしいものに変えられることを意味します。
 この詩編の作者は、病の中にあって「どうしてわたしがこんな目に遭わなくてはならないのか」的な事は一言も言いません。この人の祈りは、病が癒されることでもなく、自分を苦しめる人々に報復することでもなく、「とこしえに御前に立たせてください」ということです。
 「聖化」は、人間が努力して自分を高い所に引き上げる、ということではありません。プロテスタント神学には修行や難行苦行で人格を高めるという概念はありません。わたしたちは、このままの姿で神の御前に行くのです。そのこと自体が、わたしたちを変えずにはおかないのです。
 聖化とは、神の御前に立って徹底的にへりくだることであり、何も惜しまずに明け渡すことです。ウェスレアン神学事典にはこう書かれています。
 「全き聖化のための必須条件は信仰である。しかし信仰の先行条件はささげること、または自己を明け渡す行為であり、キリスト者だけがなしうることである。」なぜなら、まずイエス・キリストがご自身を捧げてくださったそのお姿を、わたしたちは知って、信じているからです。ガラテヤ2:20「生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」これが聖化の目標であり完全形です。聖書は、信仰者に、キリストの歩みをなぞることを勧めています。
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聖霊を受けます

使徒言行録2章36~42節

澤田 武師

主題聖句 「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」  使徒言行録2章39節
 弟子たちはイエス様が天に帰られてから、約束の聖霊を祈り待ち望んでいました。「一同が一つになって集まっていると」約束は突然に成就し、天から激しい風が吹いてくるような音、炎のような舌が一人一人に留まり、そして聖霊に満たされた弟子たちが他の国々の言葉で、神の偉大な業を話し初めた、と使徒言行録には書かれています。聖霊は一人一人に降りました。
 聖霊を受けた後、それまで一緒にいた弟子たちにはそれぞれに宣教の歩みが示されました。この後、彼らは使徒として遣わされた所へと向かいます。
 2章14節~40節は、聖霊に促されたペトロが他の弟子たちと一緒に立ち上がって語った最初の説教です。ペトロは聖霊によって「あなたがたがイエスを十字架に付けて殺した」と、ストレートに訴えます。聞いていた人々は驚いたでしょう。直接十字架には関わらなかった人々もいたでしょうが、でも、あなた方も同じ罪の中にいる、とペトロは断言しました。人の罪の重さがいかに重大なものであるかを訴えたのです。人を罪から救うために、イエス様が十字架の死によって、私たちの全ての罪を引き受けてくださった。それは神様のご計画でしたが、それまで人々には分かりませんでした。ペトロの言葉によって、この方こそが本当の救い主であった、と知って彼らは「大いに心を打たれ」ました。罪を自覚した人々は、救いのために「わたしたちはどうすればよいのですか」と迫ります。ペトロは悔い改めて、洗礼を受けることを勧めます。本当に心が変われば、行いも変わります。そして、賜物としての聖霊が与えられる約束は、全ての人に開かれています。教会とは、その人の所属する世と時代の邪悪さに目覚めさせられ、キリストの救いと恵みに生きる者となった信徒の共同体であります。ペトロの説教を聞いて、この日に3000人が悔い改めて洗礼を受けて仲間に加わったと記されています。ここに神様の業が記されています。この恵みはペンテコステの日だけのものではありません。聖霊が与えられる約束は今もこれからも永遠に続く約束です。
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キリストと共に生きる

ローマの信徒への手紙6章1~14節

澤田 武師

主題聖句 『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。』  ローマの信徒への手紙6章8節
 小松川教会は、ホーリネス信仰を継承し、ホーリネス信仰をもって日本基督教団の中に留まった、ホーリネスの群(以下ホ群)の教会の一員です。ホ群の教会は、神様の救いを「四重の福音」、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」として、その特色教理を受け継ぐ信仰の共同体として存在すると宣言しています。
 しかし、これはホ群教会が特別な事を信じているということではありません。福音には統一性と、福音のどこを強調して受け取るかによっての多様性があります。
 何人であっても、その罪を悔い改め、イエス・キリストを信じることによって救われます。すなわち罪を赦され、義とされ、新しく生まれ変わり、神の子とされます。ここに「新生」の恵みがあります。
 8節「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」パウロはこの主題を、洗礼を巡って論じています。洗礼を受けるのは「キリスト・イエスに結ばれるため」であり、私たちは、イエス様と結ばれている存在なのです。
 「死にあずかるために洗礼を受けた」イエス様は十字架の上で死なれました。イエス様は人の死を経験されました。共に結ばれているということは、私たちも共に死を経験することなのです。イエス様の十字架の死は、ただ一度、すべての罪の贖いのため、完全な救いのためなのです。それは行いによる義、律法の束縛からの解放であり、福音の時代へと変わった証詞でもあります。
 「わたしたちも新しい命に生きるためである」「生きるために死ぬ」まさに、洗礼はキリスト教の逆説的真理を表しています。わたしに起こる生きること死ぬことのすべては、イエス様に結びついています。ここに真の喜びがあります。
 信仰者が弱さと躓き、苦難と死の現実を生きていることが、あのキリストの苦難、死と復活、栄光に対応して、栄光の命に繋がっている、これは希望と確信であります。イエス様の十字架を担ったキレネ人シモンは、神様の道具とされて、福音を告げる者へと変えられました。「新生」の恵みは、個人個人の確かな体験として与えられます。
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