真心を奉げる

ヨハネによる福音書12章1~11節

澤田直子師

主題聖句 『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。』 ヨハネによる福音書12章3節a
 マリアがナルドの香油の壺を割ったのは、「イエス様は、わたしにとって、かけがえのないお方です。どれだけ尊敬を表しても愛を捧げても、自分を低くしても、言いつくせません。」という思いを表すためでした。マリアの行いによって、食事の席はナルドの香油の香りに包まれました。
 ある説教集に「あなたの教会は、何の香りでいっぱいですか。」と書かれていました。教会とは、信仰者が集まり、神を賛美する場を表します。とすれば、礼拝に集う皆さんがまさに教会なのです。『あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか』(第一コリント3章16節)わたしの内にある神の宮は、どのような香りで満たされているか。鎮まって考えたいことです。
「献げる」とは、わたしに与えられたもののうちで最上の物を神にお返しするということです。ユダがマリアの行為に文句をつけます。香油の値段を見ていたからです。しかしイエス様はマリアの真心を見ていました。
 8節のお言葉は不思議です。聖書には、あらゆるところに、主は共におられる、と書かれているのに。私たちが自分の最善を世で尽くすことに気を取られている時、いつも共におられるはずのイエス様のお姿は見えているでしょうか。
 マリアが献げたナルドの香油は、聖書に記され、讃美歌にもなり、多くの信仰者の心に届いて、献げる心を整えました。十字架の上で死なれたイエス様は、全き人全き神として復活され、全世界に返されました。神に献げたものは無駄にはなりません。必ず、わたしたちが思いもよらない形をとって、時を超えて、より大きなもの、清いものに変えられて、私たちのもとに帰されて来るのです。
 『こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。』(ローマの信徒への手紙12章1節)
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神の子と大祭司

ヨハネによる福音書11章45~57節

澤田直子師

主題聖句 『国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。』 ヨハネによる福音書11章52節
 奇跡を目の当たりにした時、人間の反応は二つに分かれます。神の御業を信じて感動し喜ぶ人と、「偶然だ」「運が良かった」と考える人です。後者のサドカイ派とファリサイ派は、ユダヤ人社会の最高法院サンヘドリンを招集します。そこでの話し合いに「イエス様とは誰なのか」という視点はありません。彼らは自分たちの身分と生活が守られることが最も大切なのです。そこには真理はありません。
 大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか」
と言い放ちます。
 実は神様も全く同じことを計画しておられます。一人の人間、イエス様が全ての罪を背負って死に、十字架の贖いを信じる人々が救われることを、神様も望んでおられたのです。エレミヤ書1章9節に「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」
とありますが、カイアファの口から出た言葉も、身勝手な考えのようでいて、実は神様が授けた言葉だったのかもしれません。
 イエス様が十字架で死なれた時、カイアファたちは、自分たちの計画がうまく運んだことを喜んだでしょう。しかし同じ時に、神様も、救いの成就を喜んでおられたのです。こうした事を考える時、人間の考えがいかに狭いか、また、神様はどのような事であれ、最善に変える力を持っておられると思わされます。
 カイアファの目論見はうまく進んだように見えましたが、わずか40年後には、エルサレムはローマによって完全に破壊され、神殿も失われ、イスラエルの民はその国土を失いました。それに対して十字架の贖いは二千年近く経った今でも、その効力を持ち続け、人々を救い続けています。
神様のご計画を見、聞き、信頼して、永遠を求めていきましょう。
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神の栄光が見られる

ヨハネによる福音書11章38~44節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」
        ヨハネによる福音書11章40節

 そこは“死が現実となった場所”です。四日前確かにラザロを葬った墓です。そしてこの日まで、残された者たちの悲しみが表された場所となりました。
 イエス様の「その石を取りのけなさい」とのお言葉に、死んだラザロの姉妹マルタは、「主よ、四日もたっていますから」と必死に止めます。その場に居てイエス様のお言葉は聞いた者たちは驚き、イエス様への疑問を抱きました。墓の石を取り除いて何をなされるのか。暑いパレスチナでは、アッと言う間に、死んだ人を再び会うことに耐えられない姿へと変えてしまいます。「もうにおいます」、人の死のその先に、さらに残酷な現実があることを伝えます。
 墓の石を取り除くことは、今よりもっとはっきりとラザロの死と対面することです。もっとつらくなり、もっと悲しむのです。永遠の悲しみに覆われてしまうでしょう。
 しかし、ラザロの死が現実であることを踏まえて、そこにも「神の栄光が見られる」とイエス様は言われます。神様の栄光は、悲しみに覆われている者たちの“石”を、自らが取り去ることから始まります。イエス様はこの時を待っていたのです。この後の奇跡を受け入れるために必要な時間と考えていたのでしょう。御自身で言われたように「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」この奇跡に関わった者たちが、イエス様を信じるようになるためです。
 「ラザロのよみがえりの奇跡」は、マルタとマリア、共に歩んで来た人々の切なる祈りでした。そして「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」。ラザロの友としてのイエス様と、天の父なる神様とは一体である、イエス様が願う事と、神様の御旨は一緒であると言われます。神様は私たちの悲しみ、苦しみの時間に制限を与えてくださいます。
 そこに信仰の勝利を見ます。イエス・キリストの十字架の勝利を見ます。信じる者は、神様の栄光が見られます。イエス様は、この感謝をもって「ラザロ出て来なさい」と大声で叫ばれました。
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イエス、涙を流す

ヨハネによる福音書11章28~37節

澤田直子師

主題聖句 「イエスは涙をながされた。」 ヨハネによる福音書11章35節
 イエス様が来られたとの知らせを、マルタ、マリアは待ち望んでいました。しかし、「兄弟ラザロの死」は、マリアを、以前のようなイエス様の御言葉に聞く者から、希望を失い死の悲しみに留まる者へと変えてしまいました。
 「先生がいらして、あなたお呼びです。」マルタの言葉は、マルタのイエス様への信頼の証しです。マリアを再びイエス様の元へと立ち帰らせるために、マルタはマリアに耳打ちします。マルタの言葉はマリアだけでなく、この姉妹と共にラザロの死を悲しむユダヤ人たちをも、イエス様へと導きました。
 ラザロの死の前に、ただ泣くことしか出来ない者たちをイエス様はご覧になり、心を激しく動かされたと記されています。共に涙を流している人々は、この悲しみの中を、姉妹と一緒に生きていこうとしている者たちです。その者たちにイエス様は同情されます。愛する者の死に心を合わせられます。ここには同情心に富むイエス・キリストの性格が、最も美しく描き出されています。 イエス様は、目の前にいる人々の悲しみを見て、死を乗り越えることの出来ない限りある命の姿を見て、涙を流されました。それはイエス・キリストが全き神でありながら全き人であったことを表しています。涙を流すことは、血肉を持つ人間特有のものです。
 この後、イエス様御自身も十字架の痛みの中に進んで行かれます。イエス様が受けられた痛みは、人間としての痛みです。十字架を見る者は、絶望の死の痛みを、イエス様を通して経験しました。
 イエス様から彼女たちへの慰めの言葉はありません。そして、この出来事が奇跡で終わることを、イエス様だけがご存知です。しかし、共に泣いてくださったのです。イエス様の涙は、彼女たちの慰めとなったことでしょう。
 イエス様の涙からはたくさんの思いが与えられます。悲しむことは罪ではないと教えられます。悲しみ、涙を流すような経験は、人には試練があり、弱さがあることを感じさせます。イエス様は全き人間として生身の人間の弱さをも持ち、私たちと同じ思いの中を歩んでくださいました。私たちの涙をイエス様は見ていてくださいます。この涙から神の栄光は始まります。
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