ただ一つ知っているのは

ヨハネによる福音書9章24~34節

澤田直子師

主題聖句 『ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』
        ヨハネによる福音書9章25節

 「お前の目をどうやって開けたのか」ファリサイ派のように、「どうやって」にこだわると、聖書のメッセージを受け取る事ができなくなります。聖書を読む時は「どうやって」ではなく「なぜ」で読むと良いのです。なぜ、イエス様はこの人の目を開けたのか。それは、彼を憐れみ、癒してやりたいと思ったからです。彼の目はなぜ開いたのか。それは、イエス様のお言葉を信じて命じられた通りに行動したからです。
 ファリサイ派は「我々はモーセの弟子だ」と言いますが、本当の意味でモーセに従っているのならば、同時にイエス様の弟子ともなれるはずです。出エジプト記を読むと、ヘブライ人がどれほど頑なで愚かで、神に逆らってきたか、モーセがどんな思いでそのヘブライ人を率いとりなしたか、よくわかります。ファリサイ派は「どうやって」モーセの弟子のように見えるか、にこだわっているのです。
 目が開かれた人は、たとえ目が見えるようになったとしても、ユダヤ人社会の中では貧しく数に入らないような自分の姿をよく知っていました。おそらく平均的な教育も受けられなかったでしょう。それでも、30節からの信仰告白は見事なものです。彼は、自分に起こった事実だけ、自分を憐れんでくださったイエス様の愛だけを頼りに、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と言い切ります。もう見えるようになったのですから、うまく言い逃れて逃げてしまっても良かったのです。しかし、この人は勇敢にファリサイ派の前に立ちます。自分の身をもって経験し、握りしめたことは誰にも奪えません。
 わたしたちは、この現代に生きて、たくさんの情報を得ています。さて、その中で「ただ一つ知っているのは」と顔を上げて言うべきことは何でしょうか。それを、いつ、誰に言うのでしょうか。本当に知らなければならない真理を知り、証しすることができるよう祈りましょう。
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目が開く時

ヨハネによる福音書9章13~23節

澤田直子師

主題聖句 『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』 ヨハネによる福音書9章17節b
 生まれつき目の見えない人が見えるようになったのだから、良かったね、おめでとう、となぜ終わらないのか。見えるようになった人はちょっと気の毒です。いつまでも留め置かれてあれこれと意地悪な質問をされます。
 この人は、つい先ほどシロアムの池で目を洗って見えるようになった時には、イエス様のことを聞かれて「知りません」としか答えられませんでした。しかしファリサイ派とのやり取りの中で、短い時間のうちに、心の中でイエス様のお姿がだんだんと見えるようになってきています。物理的に目が開かれた後で、霊的にも開かれていくのです。
 この人はなかなか勇気のある人で、ファリサイ派に取り囲まれても、気が弱くなっておもねるようなことはせず、あくまで自分に起こった事実だけを述べています。イエス様は弟子たちを派遣する時、「それは狼の群に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)と教えておられます。わたしたちが神様の御業に触れ、目も心も開かれ、それを証詞しようとする時にはサタンの業も働きます。この世に合わせろ、強い者に合わせろという圧力がかかります。わたしたちはどちらを取るかを迫られます。
 クリスチャンは、かつては閉ざされていた目が今は開かれた者です。前は何が見えなかったのか、今は何が見えているのか。この、癒された人も、ファリサイ派に詰問されなければ、「嬉しいなあ、良かったなあ」と家に帰って終わりだったでしょう。試練が信仰を建て上げていくのです。この人にとっては、生まれつき見えなかった自分が今は見える、これは動かしようのない事実でありました。しかし徐々に、その奇跡を起こしてくださった方が自分の救い主であるという事の方が、この人にとっての重大な事実に、真理になっていくのです。わたしたちの信仰も、そのように強められていきたいものです。真理を見る目を求めましょう。
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神の業が現れる

ヨハネによる福音書9章1~12節

澤田直子師

主題聖句 「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。」
        ヨハネによる福音書9章11節B

 イエス様は、毎日道端に座わって行き交う人々に施しを求めている“生まれつき目の見えない人”に視線を注がれました。弟子の一人は、イエス様の視線の先にあるものに気付き「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と、問います。この世は“この人”の存在を罪の結果として見ています。その原因を捜します。
 “この人”の体に障害があるのは、誰かが罪を犯したからである、因果応報的な弟子の問には、目の前にいる“この人”の心の苦しみは見えません、悲しみも分かりません。弟子の視線も“この人”の過去に罪を捜します。
 イエス様は弟子の問いに、「神の業が“この人”に現れるためである」、と応答されました。イエス様は“この人”を指名します。神様が御業を現す者として、今からは人々の中で生き続ける者となると言われます。
 創世記の天地創造の時、神様は人間だけを、土の塵で形づくり、命の息を吹き込んで創られたと記しています。イエス様は彼の目に、土をこねて塗って、そして、シロアムに行って洗いなさいと命じられます。光りを感じない目に光を創造され、信仰の光を見ることのできる目として開かれたのです。
 誰でも、霊的な目を開かれるためには、キリストの十字架から流れ出る清めの水によって、洗われなければなりません。キリストの贖いの死によって、信じる者の目が開かれます。
 この世は彼に起こった事実を受け入れません。人々の目には、信仰の事実が見えませんでした。この出来事を疑う人々は、どうして目が開いたのかを彼に問います。彼は自分に起こった事実について、全てのことはイエスという方が行ったとしか、応答する言葉はありません。彼は事実の証人となったのです。
 私たちの目もすぐに曇ります。私たちも霊的な目を開かせてくださいと祈り続けて行きましょう。霊的な目を塞いでしまう、罪や自我を取り去ってください、もっと神様が見えるように、もっと神様の御業がよく分かるように、この目を開いてくださいと祈り続けて行きましょう。
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暗き闇に星光り

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」 マタイによる福音書2章10節
 東方の占星術の学者たちは、不思議な星の輝きこそ、救い主がお生まれになった証しであると確信しました。星は彼らを導き、彼らは星の輝きに従い探し求めます。それは、この先に確かにおられるメシアに出会う旅となりました。
 神様のご計画は、学者たちの生活の糧である占星術ですら、救い主を指し示す道具として用いました。また神のご計画を示された者たちを、神様に大胆に近づく者へと変えられました。
 星の輝きに象徴されているものは何でしょうか。それは、未知の世界へ歩み出すための導きの光です。不安な一歩を歩み出す時、ためらう自分を勇気づける時、導きが確かならば、最初の一歩を踏み出すことが出来ます。事態を乗り越えようと右往左往する時、確かな導きを持っているかどうかは、その後の歩みを決定づけます。
 彼らはマリアと共にいる幼子を救い主と信じて、礼拝を奉げます。この場所をマタイは具体的には記していませんが、救い主が常にどこにおられるかを示しています。救い主は徹底して地上におられます。
 幼子イエス様のお姿は、無力で弱く小さな存在です。それはこの世の暗闇に生きる者たちの姿を表しています。この暗闇に救い主イエス様はわたしたちと共におられます。救い主がおられる所は、私たちの日常の中であり、嘆きや、弱さ、不安の只中にも共におられるということです。
 星は留まりました。ここにメシアはお生まれになった。喜びにあふれた学者たちの姿もまた、私たちの姿です。クリスマスは闇の中に差し込む星の光を、喜びの知らせと信じた出来事です。神様はどんな方法を用いても、信じる者を神様に導かれます。私たちを信仰の喜びへと導いてくださいます。もうそれ以上、何も探し求めなくてもよいのです。全ての答えがここにあります。喜びに導く星は今日もあなたの生活の中で輝いています。その星を指し示す働きが、クリスマスの喜びを知った者、クリスチャンが歩む道です。
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