目が開く時

ヨハネによる福音書9章13~23節

澤田直子師

主題聖句 『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』 ヨハネによる福音書9章17節b
 生まれつき目の見えない人が見えるようになったのだから、良かったね、おめでとう、となぜ終わらないのか。見えるようになった人はちょっと気の毒です。いつまでも留め置かれてあれこれと意地悪な質問をされます。
 この人は、つい先ほどシロアムの池で目を洗って見えるようになった時には、イエス様のことを聞かれて「知りません」としか答えられませんでした。しかしファリサイ派とのやり取りの中で、短い時間のうちに、心の中でイエス様のお姿がだんだんと見えるようになってきています。物理的に目が開かれた後で、霊的にも開かれていくのです。
 この人はなかなか勇気のある人で、ファリサイ派に取り囲まれても、気が弱くなっておもねるようなことはせず、あくまで自分に起こった事実だけを述べています。イエス様は弟子たちを派遣する時、「それは狼の群に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)と教えておられます。わたしたちが神様の御業に触れ、目も心も開かれ、それを証詞しようとする時にはサタンの業も働きます。この世に合わせろ、強い者に合わせろという圧力がかかります。わたしたちはどちらを取るかを迫られます。
 クリスチャンは、かつては閉ざされていた目が今は開かれた者です。前は何が見えなかったのか、今は何が見えているのか。この、癒された人も、ファリサイ派に詰問されなければ、「嬉しいなあ、良かったなあ」と家に帰って終わりだったでしょう。試練が信仰を建て上げていくのです。この人にとっては、生まれつき見えなかった自分が今は見える、これは動かしようのない事実でありました。しかし徐々に、その奇跡を起こしてくださった方が自分の救い主であるという事の方が、この人にとっての重大な事実に、真理になっていくのです。わたしたちの信仰も、そのように強められていきたいものです。真理を見る目を求めましょう。
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