罪と向き合う

ヨハネによる福音書8章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
        だれもあなたを罪に定めなかったのか。』」  ヨハネによる福音書8章10節

 律法学者、ファリサイ派にとっては、「姦淫の現場で捕らえられた女」は、「イエス様を試して、訴える口実を得るため」には最適でした。現行犯で捕えられた罪の「事実」は、誰にも否定はできません。女性は彼らによって見も知らない人々の真ん中に立たせられて、罪を暴かれます。しかし彼らは、イエス様への妬みによって偽善の罪に囚われている自分たちの姿には気付きません。彼らは自分の罪と向き合うことができませんでした。
 「罪を犯したことのない者から」、イエス様のお言葉を聞いていた者たちは、目の前にいる女性と自分たちとは、同じ「罪を犯した者」であると気づきます。改めて,自分の罪と向き合う者とされました。わたしも同じ罪人であると知った者たちは、罪なきイエス様の前に、留まることはできません。一人また一人と立ち去る他はありませんでした。
 「わたしも罪に定めない」。イエス様のお言葉に、違和感をもつ方がおられるでしょうか。イエス様こそ、唯一この女性の罪を定めることがおできになる方です。罪を犯したことのない方です。現行犯で捕まった女性に、姦淫の事実は確かにありました。それを罪に定めない。では、イエス様が考えておられる、罪を犯すとはどんなことでしょうか。
 招詞、申命記19章15節には「いかなる犯罪であれ、…二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様は律法の規定によって、女性を罪に定めることをしませんでした。しかし赦されたわけではありません。イエス様の元から離れること、新しい土地に、今までの自分と別れて、新しい生き方に生きることを命じます。これも一つの裁きの形です。女性の素性も、その後どのような生活をおくったのかもわかりませんが、変えられたことは確かです。
 「罪を犯してはならない。」罪と向き合う生き方を教えたお言葉です。イエス様はこの女性の罪を、御自分の十字架によって贖ってくださったという事も確かです。イエス様の罪の裁きは、罪の中に留まらず、新しい生活を送ることを命じています。罪に定められず、罪を赦された私たちが目指すべき姿があります。
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