主を待ち望め

ヨハネの黙示録21章22節~22章5節

澤田直子師

6月第4週は、わたしたちホーリネス系の教会にとっては特別な礼拝になります。1942年6月26日早朝、ホーリネス系教会の牧師が一斉に検挙され、その後、教会は解散を命じられました。この弾圧には、四重の福音の「再臨」が大きく関係しました。イエス・キリストが再び世に来た時、天皇はキリストより上か下か、と問われたのです。
 再臨は神の御手にある事であり、世の事どもと一緒に考えるものではありません。しかし、聖書を読んでいくと、再臨の全貌ではなくとも、一部分を幻として見せられた預言者がいることがわかります。(エゼキエル書、ダニエル書)パウロも手紙の中で、天に上げられた体験のことを書き、コリントの信徒への手紙一の13章では『今は一部しか知らなくとも、そのときには・・・・はっきり知るようになる』と希望を持っています。
 聖書に書かれた新しい天と地の幻では、黙示録でもそうですが、神殿の大きさを測ります。それは、幻ではなく本当にあることを理解させるためです。今はここにないけれども、神様のところにはちゃんと準備されてある、あればいいなという願望ではなくて本当にある、ということをはっきりさせるために、人間の物差しで測るのです。
 その美しさはとても想像できるようなものではありません。美しさもさることながら、そこには命の木があり、毎月実を実らせている。これは創世記のエデンの園にあった命の木でしょう。アダムとエヴァは罪を犯したために、この命の木の実を食べることはできませんでしたが、イエス様の十字架の贖いを信じる者はこれを食することができるのです。
 聖書の重要なメッセージの一つは、信仰者は、創世記1章31節にある『見よ、それは極めて良かった』と言われる世界に帰る、ということです。それはわたしたちの努力でできることではありませんが、イエス様の十字架を見上げ、復活の命をいただく時、不可能が可能になるのです。
 新しい天と新しい地には神殿がありません。必要ないのです。いつでも神様のお顔を見上げられるよう、玉座だけがある、何という希望でしょう!
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真理が魂を癒す

ヤコブの手紙5章13~20節

澤田直子師

ホーリネスの群の強調教理である四重の福音「新生・聖化・神癒・再臨」
の三つ目「神癒」です。およそ、古今東西のあらゆるキリスト教信徒が、これほど求めたものはないでしょう。初代教会の時代、健康保険も病院もなかった時に、貧しい人々は病に襲われた時、まず教会に行ったのです。使徒言行録には、ペトロの影がかかっただけで癒されたとか、パウロの服や手ぬぐいに触れた人は皆癒された、という記事があります。
 神の癒しとは何でしょうか。とても大切な事ですが、人間の常として、今の痛み苦しみに集中してしまい、癒されたい思いが先に立って、あまり深く考えないように思います。病気が治った人がもう病院に行かないように、神様に癒していただいたら、「ありがたい、不思議な事だ」と喜んでそれっきりになってしまう。神の愛は無条件ですが、神の癒しもまた無条件無制限に与えられるのでしょうか。
 神様がわたしたちの病を癒そうとされる時、まず、神様はわたしたちと共に痛み苦しんでくださって、そして神様がまず立ち上がり、「ほら大丈夫だよ」とわたしたちを引き上げてくださるのではないか。痛みも苦しみも辛い事ですが、それを誰もわかってくれない事のほうが辛いのではないでしょうか。だからこそ「長老にオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」と、見えない信仰を見える形にすることが勧められるのでしょう。
 イエス様の十字架の御苦しみは、わたしたちがそのような苦しみに遭わないためでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との嘆きは、わたしたちが神に見捨てられて嘆かないためでした。イエス様はわたしに代わって苦しみ嘆いてくださったのです。それを知るキリスト者は、孤独に痛むのではないことを知って癒され、力を得ます。
 「聖化」は魂と体が神に向かって、神の力によって成長することですが、無傷で育つことはできないのです。しかしそこに痛み苦しみがあっても、それをはるかに上回る喜びがあります。イエス様の元にのみ、「新生」「聖化」「神癒」があります。十字架を見上げましょう。
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なすべき礼拝

ローマの信徒への手紙12章1~8節

澤田 武師

主題聖句 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる
        聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
  1節
 聖書は、神様は「聖なる方」であると記しています。「聖」とは、私たちとは全く異なる方、区別された方である、神様の絶対性、超越性を表す言葉です。その神様は私たちにも「聖なる者」となることを求めておられます。
 私たちは教団信仰告白の中で「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したもう。」と告白します。この告白は「義認」「新生」から「聖化」へと進む信仰者の姿を現しています。
 ホーリネス信仰はその名前が示すように、「聖化」を特に重んじる信仰です。実践的であり、個人個人の生活の場において、神様の「聖」を求める信仰と言えます。「聖化」は、「主と同じ姿に造り変えられて行く」とうことです。
 パウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と、「自分の体」を聖なる生けるいけにえとして、自分の肉体だけではなく、あるがままの自分を献げることを求めます。
 「なすべき礼拝」とは、「ただ一度、この世から区別されたものが、喜びをもって、痛みを知って捧げる礼拝」です。すなわち、「主イエス・キリストが私たちのために十字架に掛かってくださったこと、復活して私たちに永遠の命を示してくださったこと」をあらわします。私たちは、イエス様が自らの体をもって、福音をあらわしてくださったことに深い感謝をもって礼拝に集います。全身全霊の感謝の礼拝を献げることが勧められているのです。
 私たちはイエス様を信じることによって「義」とされた者です。「信仰義認」を体験し、「新生」の恵みを知りました。今や罪から救われた者であると確信しています。そして、神様は私たちに何の見返りも求めません。
 「聖化」の恵みは、私たちにはどうすることも出来ない原罪、表に現れない、人間がその根底に持っている罪に対して、神様がその御手を添えて潔めてくださるということです。礼拝者は、礼拝によって、御言葉と聖礼典を通して、そして、聖霊の導きによって、「罪潔められた」と確信を得ることがきるのです。
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イエスを信じる者

ローマの信徒への手紙3章21~31節

 澤田 武師

主題聖句 「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
        そこには何の差別もありません。」 22節

 小松川教会は、ホーリネス信仰を継承し、ホーリネス信仰をもって日本基督教団の中に留まった、ホーリネスの群の教会の一員です。
 ホーリネスの群規約第3条には「ホ群は聖書的福音主義信仰に立ち、新生、聖化神癒、再臨の特色教理を強調し、特にウェスレアン・アルミニアンの神学的伝統を受け、体験的ホーリネスをもって公同教会の形成に寄与することを目的とする」とホーリネスの群の教会は、神様の救いを「四重の福音」として、その特色教理を受け継ぐ信仰の共同体として存在すると宣言しています。
 しかし、これはホ群教会が特別な事を信じているということではありません。福音には統一性と、福音のどこを強調して受け取るかによっての多様性があります。
 パウロが罪を言い表すのに用いた言葉は、「ハマルティア」的外れと言う意味の言葉です。パウロは罪を、神様と人間との関係の破れであり、神様の祝福から漏れさせる力であると語ります。そして、神様のとの回復は人間の行いでは得られないと語っています。
 21~22節「ところが今や、律法とは関係なく…神の義が示されました。‥‥イエス・キリストを信じることにより…信じる者全てに与えられる神の義です。」新しい時代の到来、預言されて来た救いの約束の成就である。「信仰義認」イエス・キリストを信じることによって、はっきりと示される救いの完成であるとパウロは宣言をします。
 ホーリネス信仰が伝えます「新生」とは、「信仰義認」をより私の信仰体験、それは日常の中で起こる私の「救いの恵み」として得ることです。「新生」の恵みは必ず与えられます。
 「つまり自分が救われて新しく変えられた、新しく生まれ変わったという現実の変化を伴う救いの経験が強調されます。」(引用)
 また、「新生」の恵みによって呼び集められた者たちが、礼拝をまもり、兄弟姉妹の交わり、一人一人の信仰が組み合わさって見えない教会として立ち上がっています。それは「何の差別もなく」すべての人に与えられる、新たに生まれ変わった恵み、生かされている喜びです。
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