真理が魂を癒す

ヤコブの手紙5章13~20節

澤田直子師

ホーリネスの群の強調教理である四重の福音「新生・聖化・神癒・再臨」
の三つ目「神癒」です。およそ、古今東西のあらゆるキリスト教信徒が、これほど求めたものはないでしょう。初代教会の時代、健康保険も病院もなかった時に、貧しい人々は病に襲われた時、まず教会に行ったのです。使徒言行録には、ペトロの影がかかっただけで癒されたとか、パウロの服や手ぬぐいに触れた人は皆癒された、という記事があります。
 神の癒しとは何でしょうか。とても大切な事ですが、人間の常として、今の痛み苦しみに集中してしまい、癒されたい思いが先に立って、あまり深く考えないように思います。病気が治った人がもう病院に行かないように、神様に癒していただいたら、「ありがたい、不思議な事だ」と喜んでそれっきりになってしまう。神の愛は無条件ですが、神の癒しもまた無条件無制限に与えられるのでしょうか。
 神様がわたしたちの病を癒そうとされる時、まず、神様はわたしたちと共に痛み苦しんでくださって、そして神様がまず立ち上がり、「ほら大丈夫だよ」とわたしたちを引き上げてくださるのではないか。痛みも苦しみも辛い事ですが、それを誰もわかってくれない事のほうが辛いのではないでしょうか。だからこそ「長老にオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」と、見えない信仰を見える形にすることが勧められるのでしょう。
 イエス様の十字架の御苦しみは、わたしたちがそのような苦しみに遭わないためでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との嘆きは、わたしたちが神に見捨てられて嘆かないためでした。イエス様はわたしに代わって苦しみ嘆いてくださったのです。それを知るキリスト者は、孤独に痛むのではないことを知って癒され、力を得ます。
 「聖化」は魂と体が神に向かって、神の力によって成長することですが、無傷で育つことはできないのです。しかしそこに痛み苦しみがあっても、それをはるかに上回る喜びがあります。イエス様の元にのみ、「新生」「聖化」「神癒」があります。十字架を見上げましょう。
📢音声