真理を行う者

ヨハネによる福音書3章16~21節

澤田直子師

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 2000頁近くある聖書の中で、最もよく知られた聖句でしょう。ルターはこの一句を「小聖書」と呼びました。
 この言葉は、イエス様がニコデモに言われたものです。会話のかみ合わない、理解の遅いファリサイ派の議員に向かって発せられたのです。続く17節では、裁きのためではなく、世を救うためにキリストは来られた、と証をされます。これは十字架の贖いと復活を知る現代のわたしたちだから納得しますが、当時のユダヤ人にとっては、それまで教えられてきた律法遵守と全く違う、何が何だかわからないことだったでしょう。
 19節、「光が世に来たのに」 この光はイエス・キリストと読み替えることができます。イエス様が世に来られたことは、大きなターニングポイントであり、救いの成就へのスタートでした。しかし、人々は闇の方を好んだ。なぜでしょうか。人間はみな、罪人です。そして、その罪を神に知られたら裁かれる、それが恐ろしいと思って隠そうとするのです。知恵の木の実を食べたアダムとエヴァは、まず隠れ、見つかると責任転嫁します。人間は罪から逃れようとして、かえって罪の世界に囚われてしまうのです。
 わたしたちが恐れを捨ててイエス様の光の中に進み出たら、必ず何らかの悪いものが照らし出されるでしょう。あのパウロでさえローマ7章で、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」 と告白しています。しかしそんなことを恐れる必要はありません。イエス様がわたしたちを招いてくださっています。わたしたちが苦労して光を探し求めるのではない、光の方からわたしたちのところへ来て、招いてくださるのです。
 イエス・キリストに出会った人たちはどうなったでしょうか?ペトロ、マタイ、ザアカイ、ニコデモ、パウロは?彼らは罪を犯しました。しかし、主に招かれ、その光の中に進み出た後では、豊かな実を結びました。自分の力では真理を行うことができなくとも、内なるキリストによって「真理を行う者」とされたのです。恐れずに光の中に進み出ましょう。
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新たに生まれよ

ヨハネによる福音書3章1~15節

澤田直子師

 ユダヤ人の指導者的立場にあるニコデモは、夜ひっそりとイエス様を訪ねます。常々心にかかっていた問題に、この方なら答えてくださるのではないか、しかし、そんな自分の姿を人に見られたくない。そんな思いだったのでしょうか。人の心の中をよく知るイエス様は、ニコデモの挨拶を素通りしていきなり核心をついてきます。「神の国」に入る資格です。
 『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』 「新たに」は「上から」とも訳される言葉、「見る」は「知る」という意味を併せ持つ言葉が使われます。理解の遅いニコデモに対して、イエス様は 『水と霊とによって生まれなければ』 と言い直してくださいます。水は罪の洗い清めを、霊は神から与えられる新しい命を示します。イエス様はニコデモに、神の国を知るために必要なのは、律法遵守でも地位でも能力でもなく、ただ神の前に悔い改め、その憐みにより頼むのみ、と教えられます。
 ニコデモには理解できませんでした。さらに言葉を変えてイエス様は教えます。『風は思いのままに吹く』 この「風」はギリシャ語ではプネウマですが、他に二つの意味「霊」と「息」を持ちます。ニコデモは高い教養の持ち主ですから、含みのある言葉をかけたのです。しかし、この世的な努力でここまで生きてきたニコデモは「どうしてそんなことがありえましょうか」と答えます。
 11、12節はイエス様が、これではだめだ、と嘆いておられるのです。やはり十字架が必要だ、と。モーセが荒れ野で蛇を上げたという故事は、民数記21章4~9節に記されています。こんなに早い時期から、神様は、人間を救おうとしておられました。ニコデモは、この時にはもうひとつイエス様の言われることを理解できませんでした。しかしこの夜の後、おそらくあれこれと思いを巡らし聖書を調べたのでしょう。7章ではイエス様を捕らえようとする議員や祭司たちをいさめ、イエス様が十字架で死なれた時には大量の没薬をもって駆けつけ、葬りに力を尽くします。
 肉の命は誕生の瞬間から死に向かいますが、霊の命は終わりのない命、日々新しく生まれ、永遠に真理に向かう命です。
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あなたの心にあるもの

ヨハネによる福音書2章23~25節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。』 2章25b節
              
 23節~25節、イエス様の公生涯の最初の出来事についてまとめられた、結論の箇所です。この出来事は先に行われた宮清めと関連して考えてみたいと思います。
 宮清めは一瞬で終わりましたが、信仰の中に不純物があることを知らせる象徴的な出来事であったと思います。それは私たちの信仰の中にも言えることです。過ぎ去ってしまえば、人は元に戻ります。“しるし”も、時が経てば、忘れられてしまいます。イエス様は、“しるし”を見てイエス様の名を信じたはずの者たちの中に、まだ固い石の心を見たのです。いかに悔改めることが難しい事であるかをイエス様は知っておられました。
 イエス様は、「全ての人のことを知っておられました。」神様は人間を「神を賛美する」ためにお造りになったと聖書に記されています。そして“しるし”はイエス様こそが救い主であることを、「真っ直ぐに指し示す証詞」です。それでも、私たちは選ぶことがゆるされているのです。誰を選ぶのかは、そこに生かされている自分を知ることになります。最終的にはイエス様へとたどり着かなければ、自分を証詞することにはなりません。
 イエス様は「何が人間の心の中にあるか知っておられる。」ドキッとする御言葉ではないでしょうか。誰にも知られない心の中を、イエス様は知っておられる。神様は人間を「極めて良い」として、この世を支配させるために創造されました。しかし、人の心に罪が入り込みます。イエス様は人間が罪人であることをご承知の上で私たちと共に歩んでくださいます。最も厄介な罪は自我です。自我を捨てること、その難しさをイエス様はご存じです。捨て去りきれないこともよくご存じです。
 ヨハネは福音書を記した意味を記しています。20章31節、この福音書を読む全ての者が含まれることを「あなたがたが」と記しています。ヨハネはイエス様の御言葉の答えをここに示しています。
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新しい天と新しい地

ヨハネの黙示録21章1~8節

澤田 武師

主題聖句 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも
        労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」  21章4節

 ヨハネが見た幻は、「新しい天と新しい地」です。ここで「新しい」という言葉には、“カイノス”という単語が使われています。それは「本質的に変わりなく、年月がたっても新しさは変わらない」という意味の言葉です。
 本質的に変わらない新しさ、イエス様の十字架の死と復活は、古き律法の時代から、新しい福音の時代へと変わったことを示しています。そして、再臨の時、全ては「新しい天と新しい地」に変わります。これは神様の御国が完全に地上に現れることです。ここに示されているのは、「神様の本質は愛である」ということです。そこに確かな希望があります。
 3節「見よ、…神が人と共に住み、…その神となり」。神様と共に住む世界、神様の約束が完全に実現された世界を表わしています。
 クリスマスの出来事は、イザヤ書に預言された“インマヌエル”の実現、神共に居ますという預言が、イエス様のお誕生によって成就したことです。
 私たちは、愛する者を失って絶望の淵に沈むような悲哀を、誰でも一度は経験します。信仰を持っていても、死は必ず訪れます。では、信仰は何の役に立つのでしょう。
 4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」神様は愛する者を失った悲しみ、嘆き、労苦、そのために流れる涙をぬぐい取ってくださる。神様はわたしの悲しみも心の痛みもすべて、引き受けてくださる。希望に変えてくださる。私たちの力だけでは耐えることの出来ない人生の苦難を共に担ってくださる。信仰は神様が愛であることを教えてくれます。
 信仰を持っていても、造られた人間である以上、間違いや過ち、罪を犯します。しかし、神様はその私たちのために、大切な独り子イエス様を十字架に架けて、その命によって罪から贖なわれ、復活の命を与えられました。イエス様の十字架と復活の信仰に生きたという意味において既に「聖徒」であります。