何に望みをかけるか

使徒言行録26章1節~11節

澤田直子師

第三次伝道旅行からエルサレムに帰ったパウロは、神殿に詣でたところをユダヤ人たちに見とがめられ、危うく殺されそうになりますが、ローマ軍に救われます。続く裁判はパウロを陥れようとするためのものでした。
パウロがカイサリアで留置されている時、ヘロデの血統であるアグリッパ王がパウロに興味を持ったので、何とかしてローマ
に行きたいという思いがあるパウロは、この機会を利用して、懸命に演説します。
 マルコ13:11 『実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ』 聖霊に導かれたパウロの言葉は、へりくだった真摯なものでした。パウロは、ユダヤ人を気の毒に思いこそすれ、悪く言ったり断罪したりはしません。パウロがローマに行きたいのも神のご計画のためです。パウロ自身は、フィリピ1:21『生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。』 生きるのでも死ぬのでも良い。けれども、どちらにしても神の栄光を表すものでなくては。そこだけは譲れない、という決意でいます。
 主の十字架の死によって、パウロの罪も死にました。罪の行きつく先の死は、神との断絶です。イエス様が十字架につけられた日、昼の12時から3時ごろまで暗黒におおわれ、イエス様の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉に応答はなかった、この暗闇。しかし三日目の復活の朝には、墓の中にさえ、もう暗闇はありませんでした。そこには輝く光と共に神の使いがおられました。主の復活によって、罪に死んだパウロに新しい命が吹き込まれました。パウロはこの事実に望みをかけています。
 ローマ総督フェストゥスは、ローマの強大な軍事力・経済力に望みをかけて、その力に頼って正しく誠実であろうとします。パウロを告発したユダヤ人たちは、裁判でパウロを死に至らしめ、自分たちが正しいことを証明することに望みをかけています。
 さて、わたしたちは、何に望みをかけてこの世を歩むのでしょうか。ヨハネ15:16『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだ。』 主の選びに望みをかけて、実を結ぶ歩みを!

あなたの道を行け

ヨハネによる福音書21章20~25節

澤田直子師

ヨハネ21章では、弟子たちは既に復活のイエス様に出会っています。しかし、この先のヴィジョンが明確に与えられたわけではありません。ペトロ、ヨハネなど7人の弟子が漁に出ます。一晩働いても何も獲れなかったその朝、岸に立つ人の『舟の右側に網をおろしなさい』との言葉に従うと、網が上がらないほどの魚が獲れました。これは、かつてペトロがイエス様に従うことを決意した朝と同じ光景です。
 朝食の後の、イエス様の3度の問いと『わたしの羊の世話をしなさい』というお言葉は、ペトロに対する再召命でした。十字架の贖いの真の意味を厳粛な思いで理解するペトロは、ふと、近づいてきたヨハネのことが気になります。この二人は、年齢は離れていましたが、いつもイエス様の一番近くにいて、お互いの信頼感も強かったと思います。空の墓にも一緒に駆けつけました。しかし、イエス様は 『あなたに何の関係があるのか』 と問われます。
 わたしたちは、何と他人の言動が気になることでしょう。現在だけでは足りず、過去にさかのぼり、未来を心配して、「他人を気にする」ことに大きなエネルギーを費やします。自分の事は見えない割に、他人のことは細かいところまで見えるし、見えたら言いたくてたまらない。これは高ぶりを呼ぶ誘惑です。聖書では、高ぶる者は引き下ろされ、へりくだる者は上げられる、という法則があります。イエス様は 『あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい。』 簡単に言えば、よそ見をするな、ということだと思います。
 わたしたちそれぞれに、神様は歩むべき道を備えてくださっています。それは、並行して神の元に向かっています。時には近くなり、時には遠ざかり、平坦さも困難さも人それぞれです。その人の道はその人だけのもので、インマヌエルの主の他、誰も一緒に歩くことはできません。(讃美歌第二編165番「さびしい谷の道」参照)
 25節にヨハネが書いていることは、今日も、この先もずっと続いきます。与えられた神の御業をしっかりと見つめつつ歩んでいきましょう。

わたしは主を見ました

ヨハネによる福音書20章11~18節

澤田 武師

主題聖句「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」       20章16節
 マグダラのマリアは、イエス様のお体がお墓の中にみつからないので、泣いていました。その場を立ち去ることも出来ないほどの悲しみの中にいます。
 イエス様の十字架の死は、マリアにとっては突然でした。さらに安息日が始まるため、十分な葬りの準備も出来ないまま、安息日が開けた朝を迎えました。確かに収めたはずのイエス様のご遺体が見当たらない。もうマリアには何が起こっているのか分かりません。何もかもが失われた絶望の中では、泣くことしか出来ませんでした。
 泣きながらお墓の中を見ると、そこにいた天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分りません。」マリアの視線は、イエス様が葬られた墓に向けられています。それは、生きている者を探す視線ではありません。イエス様の死を探す視線です。しかしそれすらも見失ってしまったマリア。
 その悲しみの言葉を神様は“祈り”に変えてくださいました。マリアが答えた言葉は、神様への訴えであり、抗議であるとも聞こえます。しかしそれはマリアの本心です。神様はこの言葉を受け取って祈りへと変えられます。
 16節、「マリア」と呼びかけたその声は、聴きなれていたイエス様のお声でした。イエス様はいつもと同じように名前を呼んで、マリアを、死を見つめる者から、復活のイエス様に振り向く者に変えてくださいました。イエス様はマリアが見ていた死の領域から振り向かせ、永遠の命を約束する、神の領域を見る者へと、その視線を変えてくださいました。
 いかなる悲しみや不安絶望の中にいても、イエス様は「わたし」を覚えていてくださり、その名前を呼んで永遠の命を見せてくだり、イエス様との関係をはっきりと示してくださいます。それが復活のイエス様と出会うことです。
 復活のイエス様は、私たちの生活の中で、名前を呼んでくださいます。そして、イエス様はマリアに新しいことを頼みます。この現実の中に生きることを命じます。イエス様が復活した出来事を弟子たちに知らせることです。マリアは弟子たちの所へ行き、「わたしは主を見ました」と大きな喜びの告白をします。イースターは、わたしたちを、イエス様が復活された事実を語る者として新たに生まれ変わらせてくださる時です。

十字架を見つめて

ルカによる福音書23章32~43節

澤田 武師

主題聖句 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
        しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」    23章41節

 実際の十字架刑は、見上げるような高いところにはありません。地上から約80センチのところに、十字架につけられた者の足はありました。それは見つめられるところに、手の届くところにあります。十字架につけられた者の姿、息遣い、体温を感じられるほど近くに十字架はあります。
 34節、イエス様の言葉 『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』 その視線の先はイエス様の十字架の意味を分からないローマ兵に、そして父なる神様に罪の赦しを得るために注がれています。
もし私が目の前のイエス様の十字架の意味が分からなかったら、ローマ兵や群衆と同じように十字架につけられた罪人としてイエス様をののしっていたかもしれません。
 43節 『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。』 一緒に十字架につけられた犯罪人の片方にその視線は向けられています。「わたしを思い出してください」それは、切なる、ささやかなるイエス様への願いでした。イエス様は 『はっきり言っておく』 と力強く救いの事実を告げます。
 犯罪人は嬉しかったと思います。確実に訪れる死であっても、そこでイエス様に出会い、視線を向けられて、共にいてくださる約束を聞きました。「義人は一人もいない」と聖書には記されています。罪を悔い、その中で苦しむ者にイエス様は一緒にいると約束してくださいます。
 41節 『我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』 十字架の前で唯一自分の罪を見つめた者の言葉です。罪を犯したことの無いイエス様から、彼は平安を得ることが出来ました。彼は救われました。
 イエス様は見ていてくださる。あなたがどんな困難の中にあるか、罪ある者としてもがき苦しんでいるか。そして「わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださる。私たちの救いは、この地上80センチのところにあるイエス様の十字架にあります。

背負ったのは十字架

マルコによる福音書15章6~15節

澤田 武師

主題聖句 「ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』」 15章14節
イエス様が背負われた十字架、そこには3つの意味があります。
 一つ目は「祭司長たちの十字架」です。祭司長たちは、誰の心の内にもある「人をねたむ」思いを扇動し、人々の間に敵意を生み出し広がって行く罪の深さ、重大性を無視していました。本来なら、彼らが罪人として、十字架に打ち付けられはずなのですが、イエス様がその十字架を背負われました。人の「心の闇」を背負われました。
 二つ目は「ピラトの十字架」です。「あの者は、どうしてほしいのか。」裁判が始まった時点では、唯一の裁きを告げる者としてピラトの存在は揺るぎません。しかし今ピラトを捕らえているのは弱さです。この弱さは、ピラトが仕えるローマ皇帝の権力、人間の「作られた権威の下にある者」の弱さです。いつの間にかピラトは自分自身を裁いています。わが身を守るその思いが、誰の心の中にもある、真理を貫くことのできない「弱さ」として現されました。
 三つ目は「群衆の十字架」です。これは「神の十字架」とも言えます。実際にイエス様が背負われたのは木の柱です。バラバ・イエスだけは、イエス様が背負われている十字架の意味を知っていたと思います。唯ひとり、目に見える、十字架で救われた者。イエス様の十字架の証人としての存在。イエス様の十字架の罪の贖いを経験した者でした。本来なら自分が背負う十字架を、歩むはずの道をイエス様が歩まれている。身代わりになってくださった。
 「神の十字架」本来なら私たちが担うはずの十字架です。しかし、全ての罪を背負い、担ってイエス様は歩まれます。イエス様しか、神の計画を実現する者はいません。
 ピラトは問います。「いったいどんな悪事を働いたというのか」どんな悪事をも担ってくださるイエス様。悪事から全ての者を救い出すために、罪から解き放つために十字架に向かわれます。