イエスが生きている

使徒言行録25章13~22節

澤田直子師

 ずっと動きのなかった場面に新しい登場人物です。アグリッパ王とその妹ベルニケは、ユダヤの王家の最後の兄妹でした。王の父は使徒言行録12章で『蛆に食い荒らされて死んだ』ヘロデ・アグリッパ、曽祖父がイエス様降誕の際に幼児虐殺令を出したヘロデ王、曽叔父が十字架の時のヘロデ王です。意識はしていなかったかもしれませんが、キリスト教と深い関りがある王でした。しかし王とは名ばかりで実際の権力はローマの総督の方がずっと大きかったので、新任のフェストゥスに早々に挨拶に訪れたのでした。
 総督フェストゥスは、アグリッパにパウロのことを話します。その言葉の中に 『このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです』 とあります。いつこの話を聞いたのかわかりませんが、ローマの総督をして『イエスが生きている』と言わしめる福音の力に驚かされます。イエス様が生きておられるとは真理そのものです。イエス様ご自身も 『わたしは道であり、真理であり、命である』 と言われました。
 信仰者にとって何より大切な真理『イエスが生きている』これをどんな時でも握りしめていきたいものです。コリントの信徒への手紙第一15章17節 『キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。』 しかしイエス様は生きておられます。私たちの罪は完全に贖われ、神の子、主の栄光の相続者として天に名前が記されている者とされました。
 ですから私たちは、試練の中でも、病の中でも、弱さの中でも、主の愛をいただいて、隣人を愛することができます。赦された者として赦すことができます。それは神の平安、平和を作り出す者の歩みです。ガラテヤの信徒への手紙2章20節 『生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』 生ける主と共に生きましょう!

主の御旨のみが

使徒言行録25章1~12節

澤田直子師

 パウロがカイサリアに2年も留置されている間、エルサレムのユダヤ人たちの計画は全く変わりませんでした。何とかしてパウロをエルサレムに送ってもらい、その途上で暗殺しようとしたのです。サタンのやり方はしつこく、絶対に自分が正しい、正しい目的のためには少しくらい悪いことをしてもいいと思い込ませ、このやり方しかないと信じ込ませます。
 このようなサタンの業は、イエス様の十字架の時も、最初の殉教者ステファノの時も同じでした。しかしイエス様は死んで復活され、ステファノはイエス様の元に上っていきます。パウロは生きてローマに連行されます。あらゆる命、あらゆる死に神様のご計画があります。同じようなサタンの業で始まっても、最後には神のご計画に変えられていきます。その示され方、表され方は、その時々、当事者によって違います。神様の御業は、一人一人、完全なオリジナルですから、自分と神様にしかわからないのです。
 わたしたちは信仰者として神様に「忠実な良い僕よ」と喜んでいただきたいと心から思っています。でもそこにはいつもサタンの誘惑があって、一生どころか一日も、一時間でさえも難しいのです。ところがわたしたちの全てをご存じの神様は、どのような道の途中でも、祈りに応えて、道を正してくださいます。思いがけない出来事から、思いがけない人の助けから、理不尽な試練からさえ、正しい道に導いてくださるのです。ヨハネの黙示録3章8節 『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしを知らないと言わなかった。』 神は人を分け隔てなさいませんから、パウロのような大伝道者でなくとも、必ず、祈る者を用いてくださいます。
箴言19章21節 『人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。』 すべてを主にお委ねし、信頼して平安のうちに歩みましょう。

パウロに聞け

使徒言行録24章24~27節

澤田 武師

主題聖句 「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。」 24節
 カイサリアでの裁判が止まってから数日後、ローマ総督フェリクスと妻ドルシラは再びパウロを呼び出します。この尋問はフェリクスの個人的な行動であったと考えられます。
 彼らは、パウロと「出会った」ことによって、今まで胡麻化してきたことや、解決できると思っていたことが、実は自分たちではどうすることも出来ない「心の暗闇」であることに気づかされました。そして、あらためてパウロからキリスト・イエスへの信仰について話を聞きに来ました。彼らは自分たちと全く異なる歩みをされたイエス様と出会いました。
 今パウロは伝道者としてイエス様の御名を宣べ伝えます。パウロの姿は終始一貫変わりません。伝道者となった最初から、伝える事はただ一つ「見聞きしたことを証しする」ことだけなのです。
 パウロの話は、信仰の核心に迫ります。それは彼らの「暗闇」そのものです。彼らは神様の前には「罪人」であり、「自制」に欠け、再臨のときには「裁き」を受ける者である。
 フェリクスは、自らの「暗闇」に真剣に向きあうことが出来ずに、パウロの言葉に「恐れ」を感じました。フェリクスはあと一歩、イエス様に近づくことが出来ませんでした。イエス様に心を開くことが出来ませんでした。自分を捨て去ることが出来ませんでした。
 フェリクスは判決を保留したままにしていますが、パウロの言葉は彼らに「悔い改め」を迫ります。人の思いが勝る時、神様の言葉は受け入られません。フェリクスの自己義認への「執着」は、パウロとの間を、神様との間を裂きました。ここにこの裁判の判決があります。
 神様は悔い改める者には、いつも語りかけてくださいます。ここに帰れと、再び会おうと語りかけてくださっています。イエス様を十字架に架けられても、私たちに救いを与えてくださいました。静まって神様の声を聞いてください。

喜んで弁明いたします

使徒言行録24章10~23節

澤田 武師

主題聖句 「しかしここで、はっきり申し上げます。私は彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」    24章14節
 テルティロの「偽り」の告発を、パウロは聞きました。パウロは、「喜び」をもってイエス様の復活、その「事実」を弁明します。生き生きと語るパウロの姿が見えるような気がします。
 パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれたこの名こそが、イエス様の福音に生きる者として、「主の道に従っている者」の名であると、「はっきりと、確信をもって」語ります。
 一方、ローマ総督フェリクスは「この道についてかなり詳しく知っていた」と、既に「福音」は知っていたようです。地位も権威もある。でも、今彼には喜びはありません。彼が判決を延ばしたのも、パウロからイエス様を信じる「真の喜び」とは、何であるかを聞こうと考えていたからではないでしょうか。
 私たちも経験します。信仰の初穂。福音は、家庭内に一時的な「騒動」を起こします。また、信仰生活に「つまづき」を感じる時は、「信仰の喜び」は、「心の騒動」へと変わってしまいます。
 
 キリスト教は、迫害の歴史から一つの事を証詞しています。それは、その時代の信仰者はどのような状況であろうとも「喜びをもってキリスト伝え続けた」、という事実です。
 パウロは“なぜ”ここまで前向きなのか。それはイエス様にこそ、「望み、平安、希望」があると確信していたからです。信仰生活のキーワードは「御言葉を信じ、復活に希望を抱き、再臨を待ち望みつつ、この道を歩む」ことであると、パウロは私たちにも語っています。それは「この道」の内に在ります。
 ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は…、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」私たちの話を最も「聞いて」くださっているのはイエス様です。事実の言葉を語る時、それは福音として誰かの心に届きます。福音を告げる言葉を喜んでこの世に響かせましょう。