わたしが遣わす

使徒言行録22章17~21節

澤田 武師

主題聖句 「すると主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」
                                                        22章21節

 パウロの回心の証詞は、群衆の騒ぎを静め、話を聞く者へと変えました。この箇所は神殿で祈っている時に、パウロがイエス様と出会い、異邦人へと遣わされる者に変えられた場面です。ここには他のものが入る余地はありません。すべてが“わたし”の信仰として現されています。
 日本語では同じ言葉になってしまいますが、原典のギリシャ語ではこの“わたし”に意味の違いがあります。ギリシャ語文法では動詞の変化で主語が誰だかわかります。特に「わたしこそ」という意味を強める時だけに、“エゴー”という言葉を用います。イエス様は「急げ。すぐにエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである」と命じます。パウロは反論します。
 パウロは「“わたし”は会堂を回って…」の“わたし”には“エゴー”が使われています。「ステファノの殉教の時に賛成したこと」パウロ以外に誰も語ることの出来ない証詞です。パウロほどイエス様に出会って「変えられた者」は、いないと思います。パウロ自身も、自分をユダヤ人伝道に最もふさわしい者と思ってもいます。しかし、最良の前提も、最もふさわしい者ですら、イエス様が遣わされる条件にはなりません。
 イエス様は「行け。“わたし”が…。」この“わたし”にも“エゴー”が使われています。ここにはパウロの「エゴー」は一切介入できません。イエス様こそが「わたしが遣わす」と、宣言されました。
 この命令は、私たちにも与えられています。イエス様を信じる者の歩み、それは献身の歩み「急げ・出て行け」の命令に従う事です。それはあなた自身の「エゴー」、「執着」から逃れよと言われます。人の計画、思いの中にも「“わたし”があなたを『遠く異邦人のために遣わす』」との使命があります。イエス様がわたしたちを派遣される条件となってくださっています。わたしたちと共に歩んでくださっています。今ここから一歩、踏み出そうではありませんか。

何をためらうか

使徒言行録22章6~16節

澤田直子師

 パウロはイエス・キリストに出会って回心した過去の姿について語ります。若い日、パウロは高名な師の元で、誰よりも熱心に律法を研究し実践しました。優秀な、将来を嘱望された律法学者でした。しかし、その心の奥底には、「律法では救われないのではないか」という不安と恐れがあったのではないでしょうか。だからこそ、生き生きと喜んで教会に集うキリスト者の姿に憤りを感じ、迫害したのではないでしょうか。
 パウロは真面目で熱心で頭が良い。実行力もある。しかし残念なことには、正しい道、真理の道が見えていない。一生懸命に平和を求めているが、平和を造りだす者になれずに苛立っている。神様は、そんな姿を見て、何とかしてパウロを救いたいと、イエス様を遣わしたのです。
 パウロの目が見えず、飲み食いもできなかった3日間の間に、神様はダマスコのアナニアに現れて、パウロを助けるように、とお言葉をかけます。
アナニアは、パウロがどのような人物か知っていました。噂を聞いて恐れていたかもしれません。それでも神様に従うことを選びました。
 22章16節 『今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』
 アナニア自身が、パウロを迎え入れ、手を置くことに、ためらいがありました。しかし恐れを超えて主に従ったからこそ、回心し目が開かれたパウロに「何をためらっているのです。」と言えたのだと思います。神様が、わたしたち弱く貧しい人間をお用いになる理由がそこにあります。
 申命記7章6節には 『主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。』 とあります。
 弱い者が、ためらった経験のある者が、それでも従った者が言うから、そこに力が、励ましがあるのです。わたしたちは、自分の弱さや貧しさを理由にして、主に従うにためらいを持つことのないようにしましょう。招いてくださったお方が、必要を満たしてくださいます。

一つの無駄もない

使徒言行録21章37~22章5節

澤田直子師

 ローマの千人隊長は、パウロにギリシャ語で話しかけられたことに驚き、ユダヤ人への演説を許可します。パウロの姿に神の光を見たのか、ユダヤ人が鎮まると、今度は、パウロはヘブライ語で話し始めます。それはかつてパウロがキリスト教の迫害者であったというものでした。パウロは手紙の中でも何度か自分の過去について書いています。この時すでに大伝道者、使徒の一人として名前が知られ、大勢の弟子もいたパウロですが、自分が迫害者であったことを、様々なところで語り続けます。なぜでしょう。
 パウロは、イエス・キリストに出会ったならば、どのような過去があったとしても、それは何一つ無駄にはならないことを言いたかったのではないでしょうか。パウロ自身は、自分の来し方について「塵あくた」とまで言っていますが、実のところ、パウロが誰よりも熱心に律法を学んだことは、決して無駄にはなりませんでした。ローマの信徒への手紙の前半において、パウロは律法の完全遂行こそが救いであると信じていた時の苦しさを例に出して、福音こそが神のご計画の完成であり、真の救いであることを立証します。イエス様が御自分を「律法の完成者」と言われたことを、証明してみせたのです。律法を極め、なおかつ福音に救われたパウロだからこそできたことでした。
 全世界のキリスト教信徒が、時が良くても悪くても、御言葉を言葉と行いとで表し、主に用いられることを願って働きを捧げています。しかし、わたしたちは人間ですから、時には実りがないように感じて力を失ったり、同労者同士でも嫌な思いをすることがあるかもしれません。働くこととつまずきはセットです。歩かなければつまずかないのです。しかし、わたしたちには、御言葉が与えられています。神に出会った者には、何一つの無駄もないことを心に留めましょう。パウロはこう言います。第一コリント15章58節 『わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているからです。』

あなたは何者だ

使徒言行録21章27~36節

澤田 武師

主題聖句 『千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。
        そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。』  33節

 パウロ人生最大の危機、「捕らわれた者」として生きる。それは「聖霊」に示された「投獄と苦難」の時ではないでしょうか。
 そのきっかけは、アジア州から来たユダヤ人の叫び。叫びは神殿の中だけに留まらず、群衆を扇動して、エルサレム中を混乱状態へと変えてゆきます。
 「聖霊」はパウロの伝道者としての道を「閉ざし」たのか。命をも危機に落としたのか。この先の導きはあるのか。この危機的状況の中でも「聖霊」は導きを与えています。聖書記者は事実の中に「聖霊」の働きを示しています。2つのキーワードで見てゆきましょう。
 「神殿の門が閉ざされた。」神殿の門は、神殿守衛長の命令で閉めることが出来ます。ですからこの騒動は、ユダヤの権威で行ったということです。パウロがユダヤの社会から、完全に締め出された存在となったことを示しています。しかしそれは、ユダヤ人伝道から、異邦人伝道への新たな道が「開かれた」ことをも意味しているのではないでしょうか。
 この騒動に千人隊長は直ちに駆けつけ、パウロをユダヤ人から解放します。そして「二本の鎖で縛るように命じます」。唯一事実を求めたのは、この千人隊長です。彼との「出会い」はこの後のパウロの歩みに、重大な影響を与えます。「聖霊」は、千人隊長を通してパウロの命を救い、ローマに護送するすべてを命じさせます。それは、ローマへの伝道の道を実現することに繋がってゆきます。この後、パウロは皇帝の裁きを求め、実際にローマへと向かいます。結果、閉ざされたと思っていた、伝道の道が開かれます。
 聖書はこの千人隊長が「何者」なのかを記しています。もし「あなたは何者だ」と神様から問われたら。困難、苦難、試練とは、「聖霊」の働きが見えなくなる時ではないでしょうか。しかし、「聖霊」はいつでも進むべき道を示していてくだる。その時わたしたちは、主を信じる者、従う者として、その名が神の国にしっかりと記されています。救われた者として歩んで行きましょう。

神が働く

使徒言行録21章17~26節

澤田 武師

主題聖句 『パウロは挨拶を済ましてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、
        詳しく説明した』  21章19節

 パウロは「聖霊」に促されて、エルサレム教会の指導者ヤコブと長老たちを訪ねます。この訪問は、「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。」と、パウロの異邦人伝道が神の御業の現れである証となり、長老たちもその働きを共に喜びあいました。
 しかし、長老たちはパウロに気がかりなことを話し始めます。律法を信じてこそ救われると信じている者が、パウロの律法違反を疑っている。長老たちはパウロの潔白を証詞するために、請願する者の助けになることを提案しますが、この提案には悪意が感じられます。
 福音書「姦淫の女性」の場面が思い出されます。どちらを選ぶにしても信仰的に重要な決断です。実はわたしたちの日常生活の中に、同じ選びはあります。
 パウロは長老たちの提案を受け入れることにしました。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。」律法は人を救わない、また、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」パウロは生涯ユダヤ人に対する救いを求めていました。この確信がパウロを働かせたのではないでしょうか。
 不思議なことに17節以降では、「聖霊」の働きが記されていません。聖霊はパウロに働かなかったのか。決してそうではないと思います。パウロはイエス様の十字架と復活、福音を土台として歩んでいることに確信を抱いていました。パウロの判断は行いによって、ユダヤ人キリスト者に、更なる伝道の機会を作るためであったと思います。信仰の土台は決して動かない。
 イエス様だけが人を救うことがおできになります。「霊の結ぶ実は愛」です。パウロは「愛」をもって応答しました。わたしたちも、イエス様の愛に触れられた時、豊かな聖霊の実をつけているはずです。イエス様を信じるように、離れないように神はいつでもわたしたちに働いていてくださいます。