励ましと慰め

使徒言行録20章1~12節

澤田直子師

 エフェソでの3年間の伝道に区切りをつけて、パウロはコリントへ向かいます。その途上にも多くの教会がありました。フィリピもその一つです。パウロは立ち寄って、信仰者を『言葉を尽して励ましながら』伝道旅行を続けました。パウロは、信仰に招かれた人々を励ますことに力を注ぎました。人を励ますというのは案外難しいことです。自信を失って不安の中にいる人に、ああすればいい、こうすればいい、と教えても、土台がしっかりしていない時にはあまり役に立ちません。かえって、そんなにできないから放っておいて、となってしまいます。人を励ます言葉とは、今のあなたはそのままで十分、わたしにとって大切なたった一人です、というものではないでしょうか。パウロは手紙の中で信仰者を励ます言葉を多く記しています。コリントⅠ 1章5節、フィリピ4章1節、テサロニケⅡ 4章1節を、自分に宛てて書かれた手紙のように考えて読んでみてください。きっと励まされます。
 7節から12節はパウロが起した奇跡です。当時、礼拝の度に聖餐式は愛餐会とセットで行われました。それは、主イエス・キリストの晩餐に倣うためと、もう一つは、キリスト教会では身分の上下に関わらず共に食事をしたので、貧しい人々が遠慮なく食事と聖餐に預かれるようにという配慮からでした。ここに出てきたエウティコもおそらくは奴隷階級の青年であったでしょう。昼間の激しい労働の疲れから、彼は眠り込んで3階の窓から落ちて死んでしまいました。10節のパウロの言葉を、新改訳聖書では「心配することはない。まだ命があります。」と訳しています。良い言葉です。どんな困難の中でも使うことができます。主の十字架に贖われたわたしたちは、「命」という言葉は、肉体の命だけでなく、神様からいただいた永遠の命をも含んでいることを知っています。エウティコが生きていたことは、人々を大いに慰めました。『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』コリントⅡ 1章4節 イエス様からいただいた励ましと慰めをもって、世と隣人に遣わされて行きましょう。

偶像と秩序

使徒言行録19章33~40節

澤田直子師

 ルカは、使徒言行録19章21節からのエフェソ騒動の顛末を記すことで、福音が拡がっていく中で、不安から起る迫害や争いを避けようとしたのでしょうか。ローマで、キリスト教は別に反社会的な運動もしていないし、騒動を起こして人心を乱してもいません、ちなみにエフェソではこうでした、と記録しておいたのだろうと思われます。
 デメトリオの不安は、自分の商売がうまくいかなくなったらどうしよう、というところから始まっています。しかしそこに、アルテミス神殿という大義名分があったために、騒ぎが大きくなったのです。大多数の者は何のために集まったかさえわからないという大混乱でした。あいつが悪い、これが悪いと騒いでいるうちは、自分の問題を見なくて済みますし、いかにも自分が正しく、力があるように思われて良い気持ちです。これは自分を偶像化し、罪を生み出す、誤った自己中心の形です。
 一方、町の書記官の言動の根拠も自己中心でした。彼は責任を追及されないように、デメトリオと群衆の不安をなだめ、パウロたちを弁護し、取るべき道を教えます。自分の言葉で、責任で、人々を説得しました。これは自己中心の正しいあり方です。今、自分は何をすべきか、何ができるか、自分の姿をしっかりと見て受け入れると、そこにはおのずと秩序が生まれます。エフェソでも暴動は回避され、誰も傷つかずに済みました。
 正しい形の自己中心は、自分を大切にします。静かに落ち着いて、事実をしっかりつかみ、いたずらに不安に囚われず、今を喜びます。自分の姿をありのままに見る時、神様に、また周りの人々にも感謝を感じます。愛せない自分、赦せない自分の姿に気づき、それを悲しんで祈ることができます。その姿は、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』(第1テサロニケ5:16~18)との御言葉に通じて行きます。今、心はどちらの方向を指しているでしょうか。誤った自己中心によって偶像方面を見ているか、正しい自己中心によって秩序を生み出そうとしているか。鎮まって祈り自分を吟味する時を持ちましょう。

不安と混乱

使徒言行録19章21~32節

澤田 武師

主題聖句 「集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」 32節B
 パウロは聖霊によって新しい思いが与えられました。ヤコブの手紙には、「知恵」は聖霊によって与えられる「神の知恵」と、「地上の知恵」、悪魔から出たものがあり、地上の知恵は「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」と記しています。
 ニーバーの平静の祈り「わたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることの出来る物事を変える勇気と、その違いを見分ける知恵とを授けてください。」神の知恵を求め、確かな導きを祈り求め続けることはとても大切です。
 「地上の知恵」は、銀細工師のデメトリオの言葉の中にあります。彼はパウロの存在が「不安」でした。「不安」はイエス様を裁く最高法院議員の心と同じように、彼に「ねたみ」を起こせさます。「ねたみ」は、「不安」を拡大させます。「不安」は「混乱」を導きます。そして「混乱」は「大多数の者は何のために集まったかさえわからなかった混乱の集会」へと変わりました。ここで「集会」と訳されている言葉は「エクレシア」です。この言葉は新約聖書では「教会」を現しています。ここに二つの「集会」があります。
 神の知恵を得たパウロに「混乱」はありません。聖霊によって集められた者の集まり「教会」には混乱はありません。自分と違う者を認める心、受け入れる心、それは聖霊によって与えられる知恵です。聖霊が結ぶ実は「平安」です。
 それでも歴史は、地上の教会は弱く、頑なであり、分裂を起こすことを証詞しています。しかし、そんなわたしたちの「教会」の中にも、イエス様は共に居てくださいます。もし、イエス様に出会わなければ、決して出会わない兄弟姉妹と今一緒に歩んでいる。これからも、共に歩み続けましょう。「エクレシア」呼び集められた者として、整えられましょう。神の知恵に満たされ、聖霊の働きやすい教会を作り上げて行きましょう。聖霊の働きは、「不安」を「平安」へと、「混乱」を「多様性」へと変えてくださいます。聖霊が働くからこそ、「集会」は聖霊による一致「教会」へと変えられます。多様性の中にこそ、本当の豊かさはあります。

悪霊の証

使徒言行録19章11~20節

澤田 武師

主題聖句  「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、お前たちは何者だ。」  15節b
 毎年8月第1主日は教団行事の「平和聖日」です。イエス様の十字架は、「神と人間との平和」を表します。わたしたちは「平和を実現する者」クリスチャンという名前は、平和を造り出す働きが委ねられた者の名前です。聖書はエフェソ伝道によって表された3つの証を記しています。
 最初は「神の証」です。「神はパウロの手を通して、身に着けていた手ぬぐい、前掛け」をも用いて「病人の癒し」や、「悪霊を追い出すこと」を行ったと記しています。聖霊が働かれる時には、日常でさえ奇跡を行う道具になります。パウロは、この奇跡が神の力以外の、何ものでもないと確信しています。私たちの日常の中の当たり前が、日々起こっている出来事が、実は“奇跡”なんだと信仰は判らせてくださる。私たちは「日常の全て」を通して、イエス様の証人として生きているでしょうか。
 次の証は、祈祷師たちを通しての「悪霊の証」です。彼らにパウロの奇跡は大変な誘惑でした。イエスの名を「試みに」に用いて悪霊を追い出そうとしましたが、悪霊は「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言い返され反撃を受けます。悪霊は、真実しか話しません。悪霊はイエス様が神であり、その御力にはかなわない。それに従うパウロもイエス様に完全に従う者として神の特別な配慮がある者であることを証しています。見せかけの信仰は、悪霊が一番よく知っています。
 この出来事は、「民の証」になりました。「エフェソに住む者に知れ渡り、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名を大いにあがめるようになった」と。さらに、悪行の告白、悔い改めを行う者へと変えられました。主の御力を知った者たちは、それまでの自分では生きてゆけません。不完全な信仰生活で生きてゆけなくなりました。それぞれが罪を告白し、罪を捨て去り「主の御名」の御力を得る者へと変わりました。
 聖書の中で一番厳しい御言葉は「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」ではないかと思います。「主よ、主よ」と呼ぶその声の中にも「試み」があり、「誘惑」に陥った者の声があります。完全な服従から離れてしまっていることです。「いったいお前は何者だ」と問われたら、わたしはクリスチャンです。いかなる時にも名乗りたい名前です。わたしたちの証です。