偶像と秩序

使徒言行録19章33~40節

澤田直子師

 ルカは、使徒言行録19章21節からのエフェソ騒動の顛末を記すことで、福音が拡がっていく中で、不安から起る迫害や争いを避けようとしたのでしょうか。ローマで、キリスト教は別に反社会的な運動もしていないし、騒動を起こして人心を乱してもいません、ちなみにエフェソではこうでした、と記録しておいたのだろうと思われます。
 デメトリオの不安は、自分の商売がうまくいかなくなったらどうしよう、というところから始まっています。しかしそこに、アルテミス神殿という大義名分があったために、騒ぎが大きくなったのです。大多数の者は何のために集まったかさえわからないという大混乱でした。あいつが悪い、これが悪いと騒いでいるうちは、自分の問題を見なくて済みますし、いかにも自分が正しく、力があるように思われて良い気持ちです。これは自分を偶像化し、罪を生み出す、誤った自己中心の形です。
 一方、町の書記官の言動の根拠も自己中心でした。彼は責任を追及されないように、デメトリオと群衆の不安をなだめ、パウロたちを弁護し、取るべき道を教えます。自分の言葉で、責任で、人々を説得しました。これは自己中心の正しいあり方です。今、自分は何をすべきか、何ができるか、自分の姿をしっかりと見て受け入れると、そこにはおのずと秩序が生まれます。エフェソでも暴動は回避され、誰も傷つかずに済みました。
 正しい形の自己中心は、自分を大切にします。静かに落ち着いて、事実をしっかりつかみ、いたずらに不安に囚われず、今を喜びます。自分の姿をありのままに見る時、神様に、また周りの人々にも感謝を感じます。愛せない自分、赦せない自分の姿に気づき、それを悲しんで祈ることができます。その姿は、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』(第1テサロニケ5:16~18)との御言葉に通じて行きます。今、心はどちらの方向を指しているでしょうか。誤った自己中心によって偶像方面を見ているか、正しい自己中心によって秩序を生み出そうとしているか。鎮まって祈り自分を吟味する時を持ちましょう。