神の中に生きる

使徒言行録17章22~34節

澤田武師

主題聖句 「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」 27節より
アテネの人々は好奇心によって「新しい知識」を求めてパウロの話を聞こうとします。しかし、パウロは「信仰」を宣べ伝えます。この説教は、聞く相手に対しての配慮と工夫がなされています。ここにパウロの、伝道者としての柔軟な考え方、たとえ、他の神々のことであっても、それをも伝道へと用いてしまう、パウロの伝道への意欲が感じられます。
 パウロは様々な神を信じている者たちを 「信仰のあつい方であることを、わたし認めます」 と相手の立場を否定しません。多神教は、人の不安から、多くの神々を作り出すことです。人の喜びの分だけ神を作りだすという事です。そして、その極めつけが「知られざる神」の碑文の言葉として存在します。
 アテネ伝道はパウロの 「至るところに偶像があるのを見て憤慨」 したことから始まりました。パウロは本当の神を知っていました。だから偶像を作ることが、信仰熱心と錯覚している人々に怒りを覚えました。本物を知らなければ、偽物も分らない。パウロは十字架の救いを確信し、それ以外に救われる道が無いことを伝えないではいられなくなりました。
創世記2章26節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うものすべてを支配させよう。』」 と、宣言されます。神は「神の似姿」としての私たちに、「信仰心、正しく生きる道、備えられた歩み」を与えてくださっています。私たちは、本物を見る目は、既に備わっています。しかし、私たちの周囲には、人が作り出し、あたかも万能と、価値あるもののように思えるため、信じてしまうものが氾濫しています。また、私たちの内にも偶像は作られます。自分自身が偶像となってしまいます。それに陥ってしまいます。あなたに偶像に対する怒りはありますか。信仰の鈍さが知らない間に本当の神ではなく、自分自身が神に代わってしまう。それすら気付かない者になってしまう。本当の神を知っている者は、いかなるものでも表すことの出来ない神を信じている者です。神は唯一、イエス様を私たちに見せて、私たちの日常の中に与えて下さいました。信じるのはこの方だけです。