復活 苦しみの実り

イザヤ書53章7~12節

佐々木良子師

 輝かしい主のご復活、イースターを迎えました。私たちの罪のために主イエス・キリストは十字架にお架かりになりましたが、ご復活によって見事に救いの御業が成し遂げられました。
 イザヤ書53章においては、主の僕の受けた苦しみ、受難について語られていますが同時に、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」(11節)と仰せになります。苦しみの実りとは、十字架による罪の救いを信じた人々に与えられる永遠の命です。
 それは主イエスご自身が十字架にお架かりになった時に受けた痛み、苦しみよりも、希望の復活の命、生まれ変わった新しい命の誕生の喜びが語られています。それは母親の出産の時の苦しみを想像します。出産の激しい痛みや苦しみがあっても、新しい命の喜ばしい誕生と共にその辛さは忘れ去るものです。新しい命の誕生は苦しみ以上の喜びを私たちは知っています。
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)
 私たちはとかく、目の前にある出来事に一喜一憂するものですが、主なる神は常に苦しみの後の実りを見つめておられます。ですから聖書においては「苦しみ」を決して否定的に捉えてはいません。苦しむべきことを苦しみ、悲しむべきことを悲しみ、その苦しみ、悲しみを「喜びに代える」のが主なる神の大いなる御業です。苦しみ、悲しみの後に喜びがやってくるのではなく、「苦しみを喜びに代える」「悲しみを喜びに代える」のが、神の憐みと恵みです。キリストに繋がってさえいれば何も恐れることはありません。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15章5節)
 主イエス・キリストの復活の命の恵みに生きる人を主イエスは更にこの世界のために用いてくださいます。私たちを通して、新しい命が豊かな命の実を結ぶことを望んでおられます。新しい年度を迎えるにあたり、目の前の苦しみだけを見つめることなく、苦しみの実りを見つめながら、30,60,100倍の豊かな実りを結ぶ者とさせて頂きたいものです。

命の終わり そして始まり

マタイによる福音書27章45~56節

佐々木良子師

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」〈46節〉
 主イエスは十字架にお架かりになる前に、本来なら私たちが叫ばなくてはならないこの叫びをご自身のこととして、主なる神に嘆き訴えられました。私たちが捨てられないために、私たちの身代わりにイエス・キリストが捨てられました。
 私たちは絶望する他ないような時に「神に見捨てられた」と、嘆き恨みをぶつけます。しかし、私たちが神に捨てられたと思っているところ、捨てられても仕方ないと思っているところ、そこに主イエスがおられます。そのことを身をもって十字架上でお示しになられました。
 「安心して絶望できる」と、宗教改革者のルターが語っています。どこにも助けがない苦しみの中で、頑張って希望を持とうとしなくても良いのです。絶望することが恐ろしく、絶望の淵から落ちないように何とかそこでふんばろうと、私たちは力を振り絞り苦しみあえぎます。しかし、絶望しても大丈夫なのです。その絶望の底で主イエスが支えてくださるからです。
 「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け・・・墓が開いて、眠りについた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出てきて・・・」(50~52節)その時とは、「そして、見よ、」と訳せる言葉です。イエス・キリストが神に見捨てられ、終わりとなったその時を見よ、とあります。つまり、誰が見ても終わりに見えたその時は、終わりではなかったと聖書は2000年以上伝えています。終わりではなく、決定的な出来事として希望の出来事として「復活」したと、命の始まりが記されています。絶望の先にある復活の命です(50~53節)。イエス・キリストによる十字架によって、私たちの絶望が打ち破られました。
 この世で絶望に無縁の人はいません。世の悪から、絶望から私たちが勝利するのでもありません。信仰の勝利者となる必要もありません。私たちは相変わらず弱く愚かなままでよいのです。相変わらず苦しみの中で絶望に陥ってもよいのです。そこで主イエス・キリストと出会い、その慈しみと憐みの中で守られていることに感謝できる者とさせて頂ける恵みがそこに備えられています。私たちを救うためにご自身を尽くしてくださる主イエスだけが救われる人生、生かされる人生のあることを、十字架を見上げる度に実感させてくださいます。

愛の迫り

ヨハネによる福音書12章1~8節

佐々木良子師

 「貧しい人々はいつもあなたがと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(9節)十字架の死を目前に主イエスは、後に主イエスを裏切るイスカリオテのユダを初め、神の愛に無理解な人々に対して仰せになったお言葉です。しかし、主イエスのこれから起ころうとしている人々の無理解、悪意、不当な裁判、十字架のために、唯、一人準備していたのがマリアという人物がいました。
 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(7節)自分の深刻な罪を知っていたマリアは、その暗闇、悲しみを突き破る喜びを知っており、キリストに救われた者として感謝と喜びをもって仕えたのです。
 主イエスの愛に対して最大限の愛をもって応えたマリアは、自分の持っている高価なナルドの香油を全て主イエスに注ぎ、しかも自分の髪で主イエスの足を拭い取りました。この行為は彼女のこれまでの全人生をささげたということで、マリアの信仰そのものです。主イエスへの一途な愛と献身の麗しい姿として信仰者の模範として代々語り継げられています。
 マリアの行為は。結局は天に積まれたものです。恵みが天に積まれたとき、心も天に向けて開けるのです。祝福の光はそこから注ぎ込まれ、恵みはいよいよ自分の中で確かなものになっていきます。「・・・あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)主イエスへの一途な愛と献身の信仰生活を見出す者は幸いです。
 主イエスは私たちの足を洗い、私たちを受け入れ、罪なきものとしてくださり、その御命を与えてくださいました。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)罪から解放されるだけではなく、死からも解放されている私たちで、イエス・キリストの復活は、私たちに死を超えて新しい命に生かしてくださっております。ですから、死の時にも私たちには希望があります。このような祝福された生涯を神のために働ける者として、キリストの愛に生きる生涯を神は求めておられます。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)乏しい私たちが、神のために共に働かせて頂けるという恵みに感謝です。

十字架の死に至るまで

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

佐々木良子師

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6~8節)
 イエス・キリストの謙遜、遜りのお姿です。主イエスのご生涯は徹底した遜った人生でした。その目的は「・・・主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)と、私たち人間が豊かになるためと記されています。「豊かになるため」という事は、豊かではないということです。
 私たちの人生を振り返りますと、人は豊かな人生を求めて生きています。凡そ下に降る人生を人は求めないでしょう。上に、上にと少しでも今の状態より、上に昇る人生を求めながら生きています。それが豊かな人生を送ることができる道と考えがえるのが私たち人間です。しかし、神は「それがあなたたちの貧しさだ」と仰せになります。
 ふと立ち止まって考えてみるなら、私たちが求めるものは、全て自分中心の事柄ばかりです。人の幸せを願うよりも私が幸せになることを。人の痛みを知ろうとするよりも私の痛みを分かってもらいたいと。挙げればキリがありません。恥ずかしいことだらけです。「何事にも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(3~5節)自分を守り、自分が豊かになることを求めるような貧しい私たちに、人のために生きるようとすることが豊かな人生だと神は仰せになります。
 イエス・キリストの遜りのお姿は、罪深い人間に対する神の赦しと神の愛そのものです。罪人である私たちを深く憐れんで、救ってくださる神のご意志に従うために、十字架の死まで従順に従われ、その命を与えてくださいました。取り返しのつかない私たちの人生を救うために、主イエスは不当な裁きを受け十字架に向かわれたのです。そうして十字架上で神のイエス・キリストの贖いが成し遂げられました。十字架の主イエスのお姿は私たちの傲慢な心を砕き、自分のことしか考えない人生を、隣人を愛し、神に感謝する人生へと変えてくださるのです。