祭司の務め

ペトロの手紙一2章9~10節

井野 葉由美牧師(ドイツハンブルグ日本語キリスト教会)

1.キリスト者の立場(9節)
 キリスト者は自分で神を選んだのではなく、神が先に選んでくださり、神の所有とされた民・天国の住民として、神に聞き従う者で、神の聖さを頂いている者として存在しています。(ペトロ一1:15,16)。神が選ばれたのは、祭司としての使命、役割があるからです(ヨハネ15:16)。旧約時代は一部の人に限られていましたが、新約になり神を信じる人は、イエスの御名の権威を使う事が許されて祭司としての役割が与えられるようになりました。
2.祭司の務め
 旧約時代の祭司の務めは、罪を民に代わって告白し、いけにえを捧げる事で神に赦しを乞うものでした。理不尽な事、誰かの罪を見たら、ただ文句を言うのではなく、彼らの為に執り成しをしました。イエス様も、自分の十字架につけようとする人々のために、「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、祈りました。今、私達はこの役割が与えられています。又、神の御業を宣べ伝える役割があります(9節)。相手の行動を変えるように迫るのではなく、神がなさった御業への感謝をいつも言葉に出すのです。神が私に為してくださった個人的な感謝ですから、誰にでもできる事です。その事に対して他の人がどう評価するかへの恐れは捨てる事です。宣べ伝えるのは、私の事ではなくイエス様の事です。「イエス様を見てください」と。
3.憐みのある執り成し(10節)
 私達が神の民となったのは、行いや信心深さではなく、神の憐みです。神の基準に歩めない人の辛さに対する同情、痛みをもって執り成す事が必要です。正しさを前面に押し出して、できない人を責める事を神は喜ばれません。イエス様が正しさを前面に出したら、誰一人救って頂けませんでした。正しさよりも神の憐みが勝ったから救われたのです。このイエス様の姿勢に従いたいです。
<結論>
 人と本気で向き合う時、痛みを伴います。もがき苦しむ所にイエス様はいらしてくださり、この権威を使いなさいと差し出してくださっています。自分にできるだけのことをやるなら神の御業を見ることはできません。一歩踏み出し、苦しみを分かち合いながら、本気で祈り合うそのような群になりたいです。

生きるにしても、死ぬにしても

ローマの信徒への手紙14章7~12節

佐々木良子牧師

 私達は何と驚くべき恵みの中に生かされていることでしょうか。計り知れない神の愛の中に命があるにも拘らず、自分の事を自分で弁解しながら、人の中で焦りながら生きている愚かな者であることを思わされます。
 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(7~8節)正に「主は与え、主は奪う。」(ヨブ1:21)との如く、神は私達の生と死とを全て支配しておられます。人の生き死には自分の意志ではなく、神がそれぞれに歩む道を与え、それを決定する権威をもっておられます。その根拠は、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9節)とありますように、私達の罪の裁きを身に受ける為に無条件にキリストが死んでくださった事が救いですが、その結果私達は復活の命が与えられ、主イエスのものとして握りしめられ、この拙い命が丸ごと主イエスに捉えられているからです。それはおどしではなく「恵み」によって捉えられ、救いの恵みから逃れる事ができない程の祝福です(詩編139)。
 「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの前に立つのです。」(10節)神に養われて生きている筈の人間が相手より高い所に立ち、裁判官になって人を裁いている、と指摘しています。「人を裁くな・・・自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:1~2)悪を正しく裁く事ができるのは神だけです。裁きは人間の能力を超えているゆえに神に委ねるのです。人は皆、キリストに赦されているだけの人間で、十字架以外に立たせて頂いているものはありません。神が私を生かし養ってくださると同時に、裁いている相手をも神は生かし養ってくださっています。
 全ての人は神の裁きの座において神を褒め称え、そして自分のことについて申し述べる事になると、続いています(11~12節)。神の御前に立った時、裁かれて言い訳をするという事ではなく、こんなに愛され、赦されているのに何故兄弟姉妹を裁いて許せなかったかと恥じ、悔いる時が来ると言います。そして罪人の私を受け止め赦しを得て立たせて頂いていた、という憐みの中にいた事に驚くのです。正にアメージング・グレイスです。生きるにしても死ぬにしても、神の御計画に明け渡して、互いに愛し合いながら歩み続けて行く私達です。

天に上げられたイエス様

使徒言行録1章6~11節

佐々木良子牧師

 主イエスが天に昇られる日の出来事です。復活された主イエスは、肉体を持って弟子たちの前に40日に亘って現れましたが、いよいよ目には見えない存在になられました。これからは主イエスに代わりに、聖霊なる見えない神を信じる時代へとバトンタッチしていきます。私達は今、聖霊なる神の時代に生かされています。本来の信仰のあり方、見ないで信じる信仰がスタートするわけです。それに先立ち「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける・・・わたしの証人となる」(8節)と約束されました。
 神の霊・聖霊は風に譬えられます。風は目には見えませんが、山をも崩す大きな力があります。人間は実に弱く危うい存在で限界があります。しかし聖霊が私達の内に宿るなら「神の霊があなたがたの内に宿っている限り・・・あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:9~11)主イエスを死から甦らせた神の力が私達を強く生かし、死で終わりではない復活の命をまで保証してくださっています。聖霊は死人をも甦らせる程の大きな力です。
 主イエスは公生涯のスタートの時、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。「・・・天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。・・・さて、イエスは聖霊に満ちて・・・」(ルカ3:21~22,4:1)このように聖霊に満たされた直後、悪魔の誘惑を受けられましたが、見事に勝利されました(4:1~12)。先ず主イエス御自身が聖霊の力を示されています。私達も同じ聖霊の力によって神と共に生き、支えられながら、慰められながら、生かされています。この力こそ私達の希望の源です。
 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たと同じ有様で、またおいでになる」(11節)主イエスが天に帰られる時、ご自身の再臨の約束をされました。その日まで、私達は単に人間として生きているという事ではなく、キリストの十字架によって罪赦された者としてキリストを証しするものとして存在しています。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(ヨハネ15:27)弟子達には他の人にない能力があるのだから証しができるという訳ではありませんでした。主イエスと一緒にいたから証しができたのです。今、私達は聖霊なる神が共にいてくださいますから、神を感謝して証しすることができるのです。

父からの約束

使徒言行録1章1~6節

佐々木良子牧師

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(4節)父の約束とは、主イエスが天の父の元に帰られた後、ご自身の代わりに私たち達を弁護し、助け、永遠に共にいてくださる真理の霊とも呼ばれる、聖霊なる神を送ってくださるというものです(ヨハネ14章)。「わたしは世の終りまで、いつもあなたと共にいる」(マタイ28:20)とありますが、これは聖霊なる神と共にいてくださるという事です。旧約時代から預言されてきた聖霊降臨の約束ですが、間もなく成就するからエルサレムを離れないで、待ちなさいと主イエスは弟子達に命じられました。
 待つとは、ある時が来るまで行動に移さないでじっとしている事です。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」と神は仰せになりましたが、「しかし、お前たちはそれを望まなかった。」と続いています(イザヤ30章15節)。待つ事ができない人間の姿が、繰り返し聖書に記されています。殆どの場合、待ち望みながら、どうしてもそうしようとは思わず、自分の欲望に従って生活している場合が多いと、ある人は言います。待ち望みながらも期待していないという事です。
 デビット・シーモンズ著者「恵みを知らないクリスチャン」という本の中で「人間が神に明け渡さなければならない最後の砦は、自分は自分で救えないと認めることだ。」と指摘しています。信仰とは「私は何もできない」只、主の恵みによるすがるものだと結論づけています。私たちが救われたのは、神の一方的な恵みです。私たちが何かを考え出したものでもなく、主体はあくまでも「神」で、救いの根拠は神にあります。神は主の恵みにすがって、助けられて歩むことを待ち望んでおられます。聖霊なる神の力を無視したり、待ち望まないで始められた人間の働きは長続きせず、期待する実も結ぶ事もできません。
 主イエスは私達に「自分の力でやりなさい」と、この世の荒波に放り出されるのではなく「わたしが共にいて、力を与え、あなたを助けるから、その時を待ちなさい」と仰せになります。こうして弟子たちは今度こそ神の言葉に従い「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(28:31)と、教会を建て上げていきました。主なる神の御業に与るのに大切な事は「待つ」事です。