豊かに満たされるために

ヨハネによる福音書6章1~15節

伊奈 聡 牧師(喬木教会牧師)

 問題が生じた時、どのように対応するでしょうか。対応の仕方で、その後の歩みが変ります。
 イエスさまのもとに群衆が集まりました。イエスさまは、彼らに食事を提供しなさい、と弟子に命じます。この問題に対して、二人の弟子がそれぞれ違う対応をしました。
 一人目。フィリポ。彼は理性的な人だったのでしょう。そこにいる群衆の数を見て、食料の値段を考え、計算し、自分が考え得る大金を手にしていたとしても、これは「無理」と結論を下しました。
 二人目。アンデレ。彼はあまり考えない性格だったかも知れませんが、とにかくイエスさまに対する信頼は強かったのでしょう。彼は少年が持っていたパンと魚を持って、「ここに少年が差し出したパンと魚がありますが...これじゃぁどうにもならないですよね」と言いながらも、イエスさまの所に行きます。
 イエスさまは、その差し出されたパンと魚を受けとり、これを祝福して配り始めますと、そこにいた全ての人が食べ、満腹になったのです。さらに、残ったパンを集めると、12の籠がいっぱいになったのです。
 問題に直面した時、自分で考えて対処することは大切なことですが、その時に自分の考えで勝手に限界を定め、「無理」とか「出来ない」と早急に結論を出すべきではないのかも知れません。
 アンデレのように、とにかくまずイエスさまの所に行く。自分で考えるのと同時に、イエスさまに相談する謙遜な姿勢が重要です。
 また今回の奇跡が行われるにあたり、重要な働きをしたのは名もなき少年でした。この少年は、大人が見ると「これっぽちでは、何の役にも立たない」と思ってしまうようなものだったでしょうが、自分の貴重なお弁当を、「イエスさまのためなら」と差し出したのです。
 捧げ物をする時に重要なことは、量の多い、少ないではありません。この世的に高価かどうか、これも問題ではありません。イエスさまに喜んで頂きたいという心が重要なのです。この捧げ物を、主はとても喜び、祝福して下さいます。
 主を愛する。この気持ちを現す捧げ物をして、恵みの中を歩みましょう。

十字架は神の力

マルコによる福音書15章16~32節

佐々木良子牧師

 主イエスが十字架につけられる場面です。十字架刑を宣告された者は、自分ではりつけにされる十字架の横木をかつぎ、刑場迄の道のりを歩かなくてはなりませんでした。しかしこの時、主イエスはご自身で背負いきれない程、弱り果てておられました。そこにシモンという人物が通りかかりこの十字架を背負わされる事となりました。
 ボロボロの状態で刑場へ到着した主イエスに、人々はののしり、あざけるのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。・・・今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(31~32節)主イエスは自分を救えないのではなく、敢えて救わなかったのです。この十字架は私達人間に対する神の裁きと呪いですから、降りたら救われる道が閉ざされますから、降りなかったのです。私達の身代わりのために、ご自身を救わないで私達を救ってくださいました。その尊い命をお献げくださり、全人類への愛の限りを注ぎ尽くし、与え尽くしてくださったのが十字架です。人は自分の満足を求めますが、主イエスは最期までご自分の満足をお求めにはなりませんでした。弱りきった最後の力をご自身のためではなく、振り絞って私達に与えてくださいました。そこに変わらない神の真実がこの世に宿り、全ての人がキリストを信じることによって、その真実を体験し、自らもその真実に生きるようにしてくださいました。主イエスは十字架から降りるという奇跡によって、人々を信じさせようとはなさらず、痛ましい「十字架の死」を通して、信じさせようとなさったのです。
 この世の人は自分の納得いくやり方で主イエスを信じようとします。こうなったら、ああなったら・・・と。しかし、そうしたらいつまでもイエス・キリストを信じる事は不可能です。通りかかったシモンが担がされた十字架は予定外でした。自分で望まなかった十字架に見えますが、自分が望む所に祝福が準備されているのではなく「どうして?」と思わされるような突然背負わされた十字架が祝福への道へと繋がっていくのです。彼はこの後キリスト者となったと思われます(ローマ16:13)。
 人は十字架を背負って生きた分だけその重みを深く知ります。そして、十字架の素晴らしさを体験すると同時に、自分の罪の重さと赦された有難さに感謝できるものとさせて頂けるのです。こうして神の力を知る者となっていきます。

群衆がイエス様を十字架へ

マルコによる福音書15章1~15節

佐々木良子牧師

 「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・」と、礼拝において使徒信条を告白しています。 主イエスは祭司長たちのあらゆる陰謀によって死刑にするための裁判にかけられ、最終的にはローマ帝国の総督であるピラトが下した判決によって十字架につけられました。しかし、彼は本意ではなかったのです。「ピラトは群衆を満足させようと思ってバラバを釈放した。・・・」(15節)と、群衆の声に圧倒され、罪のないお方の十字架刑を確定してしまったのです。
 本日の箇所には「群衆」という言葉が何度も出てきます。群衆とはいかなるものでしょうか。大勢集まるとそこに何かあると思って、又、少数派よりも大勢の中に身を置いた方が得策と思って、群れはどんどん膨らんでいきます。しかし、いくら膨らんでもその中身はというと、実体のないものです。数の力に圧倒され、群衆の渦に巻き込まれていくだけです。「群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」(使徒19:32)群衆という十把一絡げの群れは、人々の中に埋没し自分を見失い、廻りの状況に流されていく、というのがお決まりのコースです。このように主イエスは、群衆の圧倒的な声により死刑判決が下されましたが、果たして群衆は勝利を得たのでしょうか。主イエスは弁解しようとすればいくらでもありましたが、十字架に近づけば近づくほど沈黙を守られました。既に神の御心にその御身をお献げしていましたから(14:36)、表面的に見るならピラトによる裁判のように見えますが、神から下された審判であると、只々、神のみを見つめていました。主イエスが見ていた風景と群衆が見ていた風景はまるで天と地との差があったのです。
 このように群衆の中でわけわからずいる者、神と向き合う事ができない者を救うために、唯一、一人で神と向き合いながら、十字架にお架かりになる事が、神の御心だったのです。そこにこそ勝利がありました。弟子に見捨てられ、孤独の中で群衆の声によってつけられた十字架は、輝かしい神のご栄光でした。進むべき道が茨であればある程、主イエスの如く一人孤独に神と向き合い続け、神の御心を求め続けていくなら、どんなに荒れ野であってもその先に続いている勝利の道が見えてくる事でしょう。

鶏が2度鳴く前に

マルコによる福音書14章66~72節

佐々木良子牧師

 弟子であるペテロは、主イエスとご一緒なら牢に入って死んでもよい覚悟があると、主イエスへの堅い忠誠を誓っていました。しかし、数時間後「すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、あなたがたの言っているそんな人は知らないと誓い始める。」(71節)と、主イエスを完全に否定したのです。ここに記されている呪いとは「もし自分が嘘を言っているのであれば、自分は神に呪われてもよい」という強い意志を示す言葉です。現実に主イエスが捕えられ、引かれていくと、忠誠心はアッという間に崩れ去ってしまったのです。
 主イエスと3年間弟子として共にし、その愛を身に受け神の御言葉を聞き続けていたペテロでしたが、その信仰は危ういものでした。ではその3年という時は無駄だったのでしょうか。そうではありません。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろうと、イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」(72節)と、主イエスはペテロが裏切ることを予告しておられました(14:30)。そのような彼を既にご存知でありながらも、弟子として愛し続けてくださった主イエスの愛に触れ、泣き崩れたのです。主イエスの十字架が目前に迫った時に大失敗した彼ですが、3年間共にしている時にその魂には主イエスの愛が刻まれていたのです。自分は愚かで弱くとんでもない人間と知ったと同時に、神の愛の深さを心の底から知って悔んで泣ける人は幸いです。弱さ故に主イエスを否定してしまったペテロを哀れみ、慰めて、信仰者として歩み続けさせてくださるのが、主イエスの真実なる愛です。
 人はペテロを愚かと思いますが、私達もそんなものです。しかし、主イエスは後悔し泣き崩れる者のために「・・・わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った・・・」(ルカ22:32)と記されています。ペテロはこの祈りがあったからこそ立ち直り、生涯、主イエスのために命を賭して仕えていく者とさせて頂けたのです。この祈りは私達の為にも途絶えず費えませんし、この私を変えさせてくださいます。
 信仰者は自分がどんなに強いか、忍耐強いかを証しするのではありません。幾度となく倒れて信仰を見失う者を、繰り返し引き起こさせてくださる主イエスの祈りに支えられていることを証しさせて頂くのです。誰でも失敗をしますが、そこで泣く者を憐れんでくださるお方がおられる事を指し示していきます。