群衆がイエス様を十字架へ

マルコによる福音書15章1~15節

佐々木良子牧師

 「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・」と、礼拝において使徒信条を告白しています。 主イエスは祭司長たちのあらゆる陰謀によって死刑にするための裁判にかけられ、最終的にはローマ帝国の総督であるピラトが下した判決によって十字架につけられました。しかし、彼は本意ではなかったのです。「ピラトは群衆を満足させようと思ってバラバを釈放した。・・・」(15節)と、群衆の声に圧倒され、罪のないお方の十字架刑を確定してしまったのです。
 本日の箇所には「群衆」という言葉が何度も出てきます。群衆とはいかなるものでしょうか。大勢集まるとそこに何かあると思って、又、少数派よりも大勢の中に身を置いた方が得策と思って、群れはどんどん膨らんでいきます。しかし、いくら膨らんでもその中身はというと、実体のないものです。数の力に圧倒され、群衆の渦に巻き込まれていくだけです。「群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」(使徒19:32)群衆という十把一絡げの群れは、人々の中に埋没し自分を見失い、廻りの状況に流されていく、というのがお決まりのコースです。このように主イエスは、群衆の圧倒的な声により死刑判決が下されましたが、果たして群衆は勝利を得たのでしょうか。主イエスは弁解しようとすればいくらでもありましたが、十字架に近づけば近づくほど沈黙を守られました。既に神の御心にその御身をお献げしていましたから(14:36)、表面的に見るならピラトによる裁判のように見えますが、神から下された審判であると、只々、神のみを見つめていました。主イエスが見ていた風景と群衆が見ていた風景はまるで天と地との差があったのです。
 このように群衆の中でわけわからずいる者、神と向き合う事ができない者を救うために、唯一、一人で神と向き合いながら、十字架にお架かりになる事が、神の御心だったのです。そこにこそ勝利がありました。弟子に見捨てられ、孤独の中で群衆の声によってつけられた十字架は、輝かしい神のご栄光でした。進むべき道が茨であればある程、主イエスの如く一人孤独に神と向き合い続け、神の御心を求め続けていくなら、どんなに荒れ野であってもその先に続いている勝利の道が見えてくる事でしょう。