主の晩餐に招かれているあなた

マルコによる福音書14章22~26節

佐々木良子牧師

 主イエスは過越の食事の席で聖餐式を制定されました。この食卓を共にしていたのは、ユダを初め数時間後に主イエスを見捨てて逃げ出した弟子達です。聖餐式は主イエスを裏切る者、自己中的な者が集められていました。主イエスは全てをご存知の上で聖餐式を制定されました。否、そのような者達だからこそ聖餐式を制定されたと言えます。このように最初の聖餐式は決して模範的な信徒が集められる食卓ではなく、主イエスを裏切る者達によるものでした。
 主イエスは十字架にお架かりになる時「父よ、彼らお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、何をしているか分からない者を憐れみ、その命を与え尽くしてくださいました。裏切り断罪したにも拘らず、そのような者のために「取りなさい。わたしの体である。・・・これはわたしの血、契約の血である」と、全てを赦すためにその御身体を今の私達にも差出し続けておられます。どんなに裏切られようとも、私達を裁き苦しめる事によってではなく、愛し抜かれその御身体をお与えになりました。聖餐式はこのように究極の慰め希望ですから、信ずる者全ての人が招かれているのです。
 さて、ここで分け与えられたのは「一つのパン」「一つの杯」である事に注目します。原文はどちらも単数形で、一つのものを皆に分け与えられた事に意味を見出します。互いに主イエスによって結び合わされ一つとなった兄弟姉妹が神の家族となり、教会を建て上げていく為です。初代教会の交わりはこのパン裂きによって造られていきました。今の私達も同じです。しかし人が交わる所に罪が生じ、お互いを裁きたくなるような時がありますが、「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」(24節)と、私一人の為ではなく、裁きたくなる人の為でもあります。主イエスが体を裂き、血を流してくださった人を裁く自分は一体何者だろうという思いにさせられます。その人の為にも命を与えてくださったことに気付かされ、神の愛に立ち帰らせて頂く恵みです。
 「・・・神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)聖餐式毎に主イエスは霊的にはご臨在くださいますが、厳密にいえば目に見えるお姿はありません。主イエスが再びおいでになる未来を待ち望みつつ聖餐に与っている現在です。主の聖餐は神の深い御心が凝縮されています。その恵みに溢れて生きるように招かれているのです。

でかけて行くユダ

マルコによる福音書14章12~21節

佐々木良子牧師

 主イエスがいよいよ十字架にお架かりなる前日の過越の食事、最後の晩餐の席で主イエスは裏切りの予告をされました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(18節)そしてわざわざ「・・・わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」(20節)と、つけ加えておられます。日本的に言えば一緒に鍋をつっつくような、極、近く親しい「あなたがたの一人」に裏切られたのです。敵対している者ではなく信頼関係にあった人々です。私達が想像を絶するような屈辱だったと思いますが、揺さぶられる事なく既に準備されていた神の御計画通りに毅然と歩み尽くしてくださった十字架です。
 あなたがたの一人とは直接的にイスカリオテのユダを指していますが、この後、ペテロを初め弟子達が皆、主イエスを裏切る事となりました。それは弟子達に留まらず、この私達も又「あなたがたの一人」に入っていると言わざるを得ません。一人一人の罪の問題です。そうした時「人の子は、聖書に書いてあるとおり、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(21節)とまで仰せになった主イエスのお言葉を私達はどのように受け取ったらよいでしょうか。裏切った私達は生まれてこなければ良かったのでしょうか・・・
 決してそうではありません。神の御心はその罪と悲しみを自分で背負い込む事が決してないように、主イエスを十字架につけられたのです。自分で自分の罪を解決できないどうしようもない私を招き、赦してくださり十字架の元に生きるようにしてくださったのです。悔む者から「生きていてよかった」と、感謝できる者にしてくださったのは只々神の愛です。
 一方ユダは神の深い御心を知ることなく転落していきました。対照的に旧訳聖書に登場するダビデは姦淫と殺人という二重の大罪を犯しましたが、悔い改め神の愛の元に立ち帰った人物です。ユダの如く災いに向かって自ら出かけていく歩みと十字架の赦しに向かって出かけていく道があります。過越の祭り・最後の晩餐の準備の為に全て神が備えていてくださったように(13~16節)、週毎の礼拝において罪の赦しとその恵みに生きるように十字架が備えられています。この招きに与る為にそれぞれの場から日曜日毎に出かけてくるのです。

できるかぎりのことをした人

マルコによる福音書14章1~11節

佐々木良子牧師

 主イエスの十字架の出来事が迫っているある日、何とか策略を用いて主イエスを抹殺しようとあれこれ計画をしていた祭司長・律法学者達(1~2節)と、キリストの愛に精一杯生きたい、この身を全て献げ尽くしたいという献身的な一人の女が対照的に映し出されています(3節)。人の目を恐れつつ生きた者と神の前に生きた者の姿です。
 彼女は当時の300日分の労働賃金に当たる「極めて高価の香油の入った石膏の壺」を主イエスの頭に一気に注ぎかけました。その行為に弟子達は、何故こんな無駄遣いするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのにと、厳しく咎めたのです(5節)。神の深い愛を経験し、主イエスの愛に迫られ、何とか喜んで頂きたい、という者にしか理解できない行為だったのでしょう。
 彼女は罪赦され、日々その感謝に生きていた者だったと推測できます。いよいよ主イエスの十字架の時を知らされ、今、できる最大の「できるかぎりのことを」(8節)をさせて頂きたかったのです。罪赦された者とは、死から解放されるだけではなく新しい命に生き、この地上生涯を神のために出来る限りの事をささげる事ができる人を指します。「こんな卑しい私がイエス様の為に尽くせるとは何と光栄なこと」と、最高の愛の現れの奉仕ができる人は幸いです。
 主イエスは「・・・わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(6~8節)と、彼女が今しかできない精一杯の行為を心から喜んでくださいました。
 私達も罪から救われた者として、主イエスの愛に何とかお返しをしたいと教会でそれぞれの立場でご奉仕し、献金をおささげしています。時には的外れで愚かしく見えるかもしれません。しかし、イエス様に対する愛があるなら、神は喜んで受け止め益としてくださいます。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と、称賛される事を期待した人々に主イエスははっきり仰せられました。人の目にどう映ろうとも、又、人と比較する事もありません。主イエスの十字架の愛の元に、今しかできない精一杯のできる限りのことをさせて頂けることを最大の喜びとしてお仕えしたいです。

新たな幕開けの40日間

使徒言行録1章1~5節

 佐々木良子牧師

 教会は何をする所かというと、主イエスの十字架によって罪赦され復活の命を頂いた者たちが、主イエスが語ってこられた事、なさった事を行い、宣べ伝える場です。宣教は先ず弟子たちから始まり、現在は私達に託されています。その新たな幕開けの40日間が使徒言行録の最初の部分に記されています。
 「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(3節)主イエスは宣教を開始される時「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と、神の国について語られました。主イエスは40日に亘ってご自身が語ってこられた「神の国」について弟子達に理解させ、語らせるために彼らを復活の証人として整えられました。教会の宣教は特に何か新しいものではなく、主イエスのなさった事を受け継ぎ、主イエスの十字架と復活の証人となることです。
 主イエスが捕えられ十字架に釘づけにされた時、主イエスを見捨てた弟子達は自分たちの信仰がガタガタと崩れ去り、後悔でいっぱいだったと思います。しかし、そのような弟子達に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、復活後、自らを現してくださり主の計り知れない大きな愛に立ち帰させてくださいました。そうして彼らは主イエスが天に昇られてから教会を建て上げていき、教会は地の果てにまで広がったのです。臆病で不信仰な彼らは十字架と復活の証人とされ大いに用いられたのです。
 「・・・エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい・・・聖霊によりバプテスマをさずけられるからである。」(4~5節)聖霊とは主イエスが天に昇られた後、弟子達と共に、又、私達と共にいてくださる神で、助け導き真理を悟らさてくださる霊です。弟子達は聖霊の力によって立ち上がる事ができ、新しい歴史の幕開けのきっかけを生み出したのです。待つ事のできなかった彼らは主のお言葉に従い、聖霊の力を待ち望んだ結果、主イエスの宣教を継続し展開していきました。臆病で不信仰な弟子たちを変えたのは、共にいてくださる聖霊の力です。今も同じように力を与えてくださる聖霊なる神が働いてくださっています。教会が教会としてあり続けるために、既に聖霊が与えられ、宣教する教会へと託されいる私達は幸いです。