できるかぎりのことをした人

マルコによる福音書14章1~11節

佐々木良子牧師

 主イエスの十字架の出来事が迫っているある日、何とか策略を用いて主イエスを抹殺しようとあれこれ計画をしていた祭司長・律法学者達(1~2節)と、キリストの愛に精一杯生きたい、この身を全て献げ尽くしたいという献身的な一人の女が対照的に映し出されています(3節)。人の目を恐れつつ生きた者と神の前に生きた者の姿です。
 彼女は当時の300日分の労働賃金に当たる「極めて高価の香油の入った石膏の壺」を主イエスの頭に一気に注ぎかけました。その行為に弟子達は、何故こんな無駄遣いするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのにと、厳しく咎めたのです(5節)。神の深い愛を経験し、主イエスの愛に迫られ、何とか喜んで頂きたい、という者にしか理解できない行為だったのでしょう。
 彼女は罪赦され、日々その感謝に生きていた者だったと推測できます。いよいよ主イエスの十字架の時を知らされ、今、できる最大の「できるかぎりのことを」(8節)をさせて頂きたかったのです。罪赦された者とは、死から解放されるだけではなく新しい命に生き、この地上生涯を神のために出来る限りの事をささげる事ができる人を指します。「こんな卑しい私がイエス様の為に尽くせるとは何と光栄なこと」と、最高の愛の現れの奉仕ができる人は幸いです。
 主イエスは「・・・わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(6~8節)と、彼女が今しかできない精一杯の行為を心から喜んでくださいました。
 私達も罪から救われた者として、主イエスの愛に何とかお返しをしたいと教会でそれぞれの立場でご奉仕し、献金をおささげしています。時には的外れで愚かしく見えるかもしれません。しかし、イエス様に対する愛があるなら、神は喜んで受け止め益としてくださいます。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と、称賛される事を期待した人々に主イエスははっきり仰せられました。人の目にどう映ろうとも、又、人と比較する事もありません。主イエスの十字架の愛の元に、今しかできない精一杯のできる限りのことをさせて頂けることを最大の喜びとしてお仕えしたいです。