どこに教会をたてるのか

マタイによる福音書16章13~20節
山下泰嗣牧師(江戸川松江教会)

 「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」主イエスは、弟子のシモンを「ペトロ=岩」とお呼びになり、「この岩の上にわたしの教会を建てる。」とおっしゃいました。この主イエスのお言葉は、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白を受けての言葉であります。ですから、主イエスが「わたしの教会を建てる」とおっしゃったのは、単に「ペトロという人間」にではなく「信仰告白をしたペトロ」の上に建てるということであります。さらに言いかえると、ペトロだけではなく、「信仰告白をした人々」の上に、「信仰告白」の上に主イエスは教会を建てられるのです。
 しかし、主イエスはこの後,ご自分がメシアであることを誰にも話さないように命じておられます。これは、ペトロの信仰告白が、正しいけれども間違えているからです。主イエスがメシアであることは正しいけれども、ペトロや当時のユダヤ人が考えていた、ローマを倒してイスラエルの国を建てるという政治的なメシアの姿が間違いなのです。
 まことのメシアとは、多くの苦しみを受け、十字架の上で死に、三日目に復活するお方です。そして、このお方をメシア・神の子・わたしの救い主と告白する信仰告白の上に、教会は建てられるのです。そして、信仰告白の上に教会が建てられるからこそ、「陰府の力もこれに対抗できない」のです。確かに、陰府の力=死の力は強大です。すべての人が、この力に対抗できず、死を経験します。しかし、死と復活を経験された主イエスを、救い主と告白する私たちにとって、死は新たなる永遠の命への通過点にすぎなくなります。そして、主イエスを神と告白する信仰の上に建つ教会は、陰府の力を恐れる必要がなくなり、死を超えた復活の希望に生きることができるようになるのです。
 「どこに教会を建てるのか」それは、私たちの信仰の上に建てるのです。牧師や役員の信仰ではなく、私たちの上に教会が建てられ、私が教会を支えるのです。ペトロのように、信仰が揺らぎ、間違いを犯す私たちですが、岩として教会を支えることができるように、まず、主イエスが私たちの土台となって、支えてくださっています。だから、私たちは、一人一人が教会を支える大切な「岩」であり、また、その「岩」を絶やすことのないように、全員で伝道する必要があるのです。私に教会を建てる。その思いをもって歩んで参りましょう。

神の御心を深く知るように

使徒行言録16章6~10節

 人は様々な計画を立てますが、実際は行き詰まりと挫折の連続のように思います。しかし、後になって神の御心だった事を確信し、感謝できるのが信仰者の歩みではないでしょうか。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩備えてくださる。」(箴言16:9)
 伝道者パウロは世界伝道に福音を宣べ伝える大きな役割を果たしましたが、計画通りに達成した訳ではありません。2回目の伝道旅行では「・・・御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので・・・イエスの霊が許さなかった・・・それで、ミシア地方を取ってトロアスに降った。」(6~8節)と、伝道の拠点となる良い条件だった南のエフェソも北のニコメディアにも行く事を、ことごとく禁じられ、やむなく西へと向かう事になりました。しかし「その夜、パウロは幻を見た・・・わたしたちを助けてください」(9節)と、思いもよらずマケドニア人の叫びを聞き、マケドニアに出発した事によって、福音が初めてヨーロッパへと伝えられ、世界へと発展していきました。祈って計画した事でも止められる事もありますが、神を信頼して従って行く時、神の御業は必ずなされます。
 旧約時代のイスラエルの民がエジプトを脱出する時、神は昼は雲の柱となり、夜は火の柱となって伴って導かれました。彼らは主の御旨に従い、雲が一か月でもそこに留まるなら留まり続け、ある時は一日にも満たないでその場を出発しました(民数記9:15~23)。神を信頼し御心に従う歩みです。
 この世で神の民として歩むという事は、神の御心・導きに従う生き方、つまり霊的な訓練をいつも受けている私達です。神の御心を知ることは重要であると同時にそう簡単には分かりません。それは単なる頭の理解ではなく、上からの聖霊によって分かる事です。その為に神の前に静まること、神の御言葉と祈りに心を捧げていくこと、つまりデボーションが必要となります。一日の初めに神の御前に出て神と交わり命の糧を受け、神の霊に満たされて立ち上がるならば、小さな成功や不成功に一喜一憂しなくなり、この世に翻弄されない人生を歩ませて頂けます。日常生活で何が神の御旨であるか、今、私の内に何が宿っているのか、何に支配されているかを点検して頂き、聖霊に充たされる事を願い、信じて神の御心を悟る者とさせて頂きたいです。「静かにしているなら・・・安らかに信頼していることにこそ力がある・・・」(イザヤ30:15~16)

ぶどう園の主人の不思議

マルコによる福音書12章1~9節

 主イエスはそのご生涯で多くのたとえ話をなさいましたが、本日の箇所はご自身の十字架の死を見つめた最後のたとえ話です。神とイスラエルの民の長い歴史を述べたもので、神に選ばれたイスラエルの民の歩みは神に反抗し続ける歩みでした。主イエスは「・・・預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(ルカ13:34)と、仰せられます。このように神の愛の応える事のできない人間の罪の歴史をぶどう園の譬えとして話されました。
 このたとえ話のぶどう園の主人は神で、最後の愛する息子とはイエス・キリストの事です。農夫は祭司長や律法学者等イスラエルの指導者たちで、度々遣わされた人々は、旧約聖書から続く預言者達の事を現しています。神はご自分の民が何とかして神に立ち返り信仰の実を実らせようと預言者を送り続け、遂に最後には神の独り子であるイエス・キリストを送ってくださいました。しかし、自分達の罪を救う為に十字架の道を辿られる主イエスに対して人々は侮辱し、唾を吐き葦の棒で頭を叩き続け、ののしり続けるという、人間の罪深さを目の当たりにします。さらに「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)と、やられたらやり返すだろうという、浅はかな人間模様まで記されています。この世の縮図、罪びとである私達の生き様を見るようです。
 しかし、主イエスはこのような人類の罪を暴くために語られたのではありません。「・・・これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(11節) 罪びとへの愛の限りを注ぎ続け、与え尽くしてくださった神の深い愛の逆転劇を示されました。私達が主イエスを拒否し見捨てようとも神の真実は変わらず、主イエスを私達の為に教会のかなめ石として尊く用いられ、十字架が輝いています。「主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らであると・・・愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼を負い、彼を担ってくださった。」(イザヤ63:8~9節)人間の不従順さに拘らず神の慈しみと真は永遠に変わらず、更に私達の苦難を常にご自分の苦難として背負いながら、愛してくださっています。私達の目に不思議と見える大逆転劇が起こり続けています。

御手の中で

申命記33章1~3節

 「人生は中断の連続である。」とある人は言います。しかし、又、ある人は「思うようにならぬ故の感謝」とも言います。「世の人はしばしば嘆じていう、世の中のことは思うようにならぬものだと。しかし、私は思うようにならないが故に感謝したく思う。」人の一生は思うようになるのではなく、神の御心がなされていると信じるから平安の内に生き、更に湧き踊る勇気が出て来る。神の御手の中に乗せられている私達は何の恐れもためらいもない、と結論付けています。旧約聖書に登場するモーセは、正にそのような人生を全うした人と言えます。彼は神の御手の中にある事を確信して人生を生き抜き、更に人間が生きている時も死んだ時も神との交わりの中にある事を確信して天に帰りました。
 イスラエルの指導者として彼の歩みは、時には仲間から裏切られたり、苦難の連続の生涯で、その上神からの約束の祝福の地に入る事もできませんでした。しかし臨終に際し過去を嘆くのではなく神への信頼と感謝をもって、イスラエルの民に対して祝福の言葉を残して天に帰りました。「主はシナイより来たり、セイルから人々の上に輝き昇り、パランの山から顕現される・・あなたは民らを慈しみ、すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。」(2~3節)  モーセはその遺言の中に、自分が去るにあたってイスラエルの祝福を伝えました。主なる神がこられるということ、主がその民を愛され、全て聖別された者が主の御手の中にあると事を伝えました。全ての者が主の足元に座って教えを受け、御言葉を聞き、生かされる恵みです。
 「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう・・・天に昇ろうとも、あなたはそこにいまし・・・曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにいまし・・・右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:7~8)太陽の光がどれほど強く遠く届こうとも、神の御手はそこにもあるし、神の導きはそれをもしのぐ強さで確かにあると、詩人は告白しています。神の偉大な救いと恵みの現実の中に私達も置かれています。
 人間の死に様は生き様と言われています。モーセはこのようにこの世から天の御国に、続く神の御臨在を信じ感謝をもってその人生を閉じました。モーセの如くに、神の定められた人生を忠実に歩み、天まで続く神の御手のぬくもりを喜びながらこの世を閉じ、後世に祝福を残せたら幸いです。