愛しているから

マルコによる福音書11章12~14節,20~26節

 主イエスが十字架にお架かりになる週、ベタニアからエルサレムに戻られる道すがらの出来事です。いちじくの木に収穫する実がなかったので、呪ってたちまちのうちに枯れさせたという、出来事が記されています。このことが象徴する事は、主イエスの教えを信じていながらも、神の喜ばれる悔い改めの実を結ばない者は、いちじくの木のように枯れて滅びるというのです。霊的な実を期待されていましたが、何の実りもなかったのです。
 聖書において収穫・刈り入れとは、世の終り、つまり主イエスの再臨の事を表わしています(マタイ13:39)。主イエスの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と、悔い改めから信仰への招きでした。最終的に信仰の実を結ばせる為です。「悔い改め」とは神の前に誠実に向き合い、ありのままの自分を明け渡し、神に対して真実に生きる事です。そうして人は神によって変えられていきます。その人の全存在と生き方、生活そのものと深く関わる出来事です。自分の人生に対する神の御計画をはっきりと自覚する事を主イエスは望んでおられます。来るべき終りの日に備えて霊的な戦いは、今も続いています。
 しかしここでは実を結ばないと審かれるという戒めで終わっているのではありません。神の深い愛の根底の基に限りない神の赦し、希望がある事を示しておられます。「神を信じなさい。・・・だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。・・・祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(22~24節)ご自分が十字架に命をささげ、全ての人の罪の贖いを成し遂げ、その後に続く者たちに求められるものは信仰と祈りです。
 いちじくの木のように枯れてしまうような不徹底な私たちですが、信じなさい、祈りなさいと励ましてくださっています。何かの見通しによって信じていくというのは信仰ではありません。ただひたすら神のみを信じて祈っていく事が信仰です。信じて祈るとは、祈りの中で信じて求める事です。そこには必ず祝福が伴い、山をも動かすほどの事を主イエスが成してくださいます。救われようもないこの私が救われたことは、山が動く事よりも驚くべき奇跡です。神が求められる相応しい実を結ばせて頂けるように、祈り求めて歩みたいです。