イエス様は問うておられる

マルコによる福音書11章27~33節

 自分達の立場を守ろうとする祭司長や律法学者たちは「権威」を材料にして、主イエスを裁こうと試みましたが、逆に彼ら自身が問われる事となりました。主イエスは詰問する彼らに「ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか、答えなさい。」(30節)と、問い返しました。「しかし、『人からのものだ』と言えば・・・。彼らは群衆が怖かった。・・・」(32節) と、彼らにとってどちらの答えも自分達の立場をゆり動かすものだったので、答える事ができませんでした。
 主イエスを十字架に架けるにあたって、死刑判決を下したピラトも同じようにこの世の権力を恐れ、自分の立場を正当化しながら身を守る事に精一杯だったのです。真実なものに向き合う事ができずに、主イエスに従う生き方ができなかったのです(15:15)。彼ら達のように人を恐れ、人の秤で自分を計りながら心の平安を失って、もがきつつ生きているのが世の常でもあるとも言えます。
 このような惨めな私達に対して神は「あなたがたは世の権力を恐れ、人を恐れ、弁解し、言い訳しながら生きていなくても大丈夫」とイエス・キリストを通して示してくださいました。この世の権威は一つだけ、主イエスの権威です。それは上から牛耳るこの世の不確かな権威ではなく、自らが遜り犠牲を払ってくださったものです。罪びとの罪を指摘し、悔い改めを求める権威です。しかし人を断罪するものではなく、全てご自分の上に私達の罪を背負ってくださり、その罪の報いとして、死を引き受けてくださいました。これが十字架です。
 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシヤの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。」(ヨハネの黙示録12:10)私達の罪を知る者がいて神に告発されたら言い逃れはできません。そういう罪を私達は犯しています。しかしそのような告発者よりも圧倒的に強い罪の贖い主の権威、イエス・キリストが現れたのです。既に罪の赦しの為の道が開かれ、罪びとである私達が神の子とされて、神の恵みの中に、神の権威の下で生かされています。そして日々私達は十字架の前で問われる者として存在しています。しかし、自分の罪深さを悔いた時、神はイエス・キリストの十字架の救いによって慰めてくださいます。その恵みに感謝し、涙を流した分だけ恵みはこの身に沁みてきます。

イエス様の思いを通して

マルコによる福音書11章15~19節

 主イエスはエルサレムに入城され、神殿で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したという、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれている出来事が記されています。主イエスはこの怒りを通して、あるべき教会の姿、礼拝について、信仰について教えられています。
 「・・・わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(7節) 本来の神殿のあるべき姿が失われ、神殿を神の家としてではなく、自分達の都合の良い家にしていました。当時の状況は過越しの祭りが近づいており、ユダヤ人達はエルサレム神殿にやって来ました。両替も鳩売りも古くからの慣例に従い、祭儀の手助けをしていると、彼らなりの理屈を持っていたと推察できます。彼らが行っている事は、自分の判断、その思いや考えによって「正しい」と評価したり、自分達の都合で神殿に仕えていたのです。主イエスはこの世のしきたりや自分の経験でしか物事を考える事ができない人々に対して「あなたの考え方は違う」と、怒りとも見えるような方法で悔い改めを迫っております。
 現代にあてはめてみるなら、神殿とは教会を指し、祈りの家とは礼拝の事を意味します。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)打ち砕かれた霊とは、自分が捧げられる物は何もない、と知った人です。罪を犯したこの身には捧げられる物は何もありませんと、告白できる者を神は喜んで受け入れてくださり、主イエスの十字架の救いによって罪びとを立ち上がらせてくださいます。私達も自分が主であるのか、神が主であるのか、いつも正当化しながら、自分の理屈や都合によって、信仰生活をしてはいないでしょうか。神の前に、神との関係においてどうか問われているように思います。
 主イエスが求めておられる礼拝は「・・・神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23~24節)霊とまことをもってとは、自分の全存在がそこにあるという事です。罪びとである自分が救いを必要とする自分が、神の前に無条件にひざまずいている姿です。そして復活されたキリストに触れて頂き、罪赦された事を確信し神の愛に触れる場ですが、時には「あなたはそれではいけない」と、今の自分がひっくり返される場でもあります。

愛しているから

マルコによる福音書11章12~14節,20~26節

 主イエスが十字架にお架かりになる週、ベタニアからエルサレムに戻られる道すがらの出来事です。いちじくの木に収穫する実がなかったので、呪ってたちまちのうちに枯れさせたという、出来事が記されています。このことが象徴する事は、主イエスの教えを信じていながらも、神の喜ばれる悔い改めの実を結ばない者は、いちじくの木のように枯れて滅びるというのです。霊的な実を期待されていましたが、何の実りもなかったのです。
 聖書において収穫・刈り入れとは、世の終り、つまり主イエスの再臨の事を表わしています(マタイ13:39)。主イエスの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と、悔い改めから信仰への招きでした。最終的に信仰の実を結ばせる為です。「悔い改め」とは神の前に誠実に向き合い、ありのままの自分を明け渡し、神に対して真実に生きる事です。そうして人は神によって変えられていきます。その人の全存在と生き方、生活そのものと深く関わる出来事です。自分の人生に対する神の御計画をはっきりと自覚する事を主イエスは望んでおられます。来るべき終りの日に備えて霊的な戦いは、今も続いています。
 しかしここでは実を結ばないと審かれるという戒めで終わっているのではありません。神の深い愛の根底の基に限りない神の赦し、希望がある事を示しておられます。「神を信じなさい。・・・だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。・・・祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(22~24節)ご自分が十字架に命をささげ、全ての人の罪の贖いを成し遂げ、その後に続く者たちに求められるものは信仰と祈りです。
 いちじくの木のように枯れてしまうような不徹底な私たちですが、信じなさい、祈りなさいと励ましてくださっています。何かの見通しによって信じていくというのは信仰ではありません。ただひたすら神のみを信じて祈っていく事が信仰です。信じて祈るとは、祈りの中で信じて求める事です。そこには必ず祝福が伴い、山をも動かすほどの事を主イエスが成してくださいます。救われようもないこの私が救われたことは、山が動く事よりも驚くべき奇跡です。神が求められる相応しい実を結ばせて頂けるように、祈り求めて歩みたいです。

今こそ出番です

出エジプト3章7~15節 マタイによる福音書28章18~20節

 本日は世界宣教の日です。主イエスは弟子達に「・・・わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と恵みのお言葉をもって全世界に出て行って福音を宣べ伝えるように命じられました。私達もそれぞれ何らかの形でこの世に遣わされている事を心に留めたいと思います。
 神が私達に使命を与えられる時、能力や経験等を問題にはなさいません。却って失敗や挫折した人々を神の御業のために用いて、ご自身を現されます。弟子たちは主イエスが十字架にお架かりになった時、見捨てた人々です。又、旧約時代の偉大な指導者モーセを見てもその人生は波乱万丈でした。
 彼はエジプトの王子として育てられましたが、同胞を助けようと殺人を犯してしまいエジプト人に追われ更に仲間にも見捨てられ、逃亡の地で羊飼いとなったのです。しかし神は「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト3:10)と、使命を与えられました。挫折した私が権力者エジプトの王・ファラオに向かって何ができようかと問いますが(11節)、神は「わたしは必ずあなたと共にいる。」(12節)と約束されました。
 更に「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と、無から有を生み出し、天地創造された全知全能の神がこの世界を支配しておられる事を示され、神は唯一で、他の存在に依存しないでご自身で存在されると断言しております。このような神が「あなたと共にいる」という恵みの中であなたを支えるから大丈夫、との約束をモーセは信じたのです。このようにして神はモーセを通してイスラエルの民を約束の地へと導かれました。
 私達も問題が山積している世界へと、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者としてそれぞれの場へと遣わされる出番です。世界各地に遣わされている宣教師は目に見える保証は何もありませんが「わたしが共にいる」とのお言葉で支えられています。いつの世にも目の前にファラオのような存在が立ちはだかりますが、それも神が遣わした人です。その事によって神と出会わせてご自分の救いの力を見せる為に、神が共にいて下さることを見せる為です。今こそ「わたしが共にいるではないか」との恵みのお言葉を信じ抜いて、恐れる事なくお従いしていく時です。