わたしも小さな子ろば

マルコによる福音書11章1~11節

 主イエスがこの世に来られた目的は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と、神が御支配される神の国・天国の建設です。その為に主イエスは身代わりとなって、私達が架かるべき十字架につけられ、罪の暗黒の世界から救いの世界へと導いてくださいました。しかし、未だに完成されておらず「主がお入用なのです」(3節)と、神のお働きの為に今度は私達自身が求められています。愛する独り子、イエス・キリストを断腸の思いで十字架につけられたにも拘らず、御業成就の為にこのような私を用いてくださるとは、何と光栄な事でしょう。
 本日の箇所は主イエスがいよいよ十字架にお架かりになる最後の一週間、いわゆる受難物語の初めのエルサレム入城の場面です。神が先ず用いられたのは「子ろば」でした。「・・・まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる・・・」(2節)神は思いつきでそこにいる子ろばを用いられたのではなく、旧約時代からの預言者ゼカリヤ預言の成就でした(ゼカリヤ書9:10)。エルサレム入城直前に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また。多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(9:45)と、子ろばに乗られた主イエスの御姿は、主イエスの柔和と謙遜の象徴です。ろばは馬と違って戦争に使われるのではなく、重い軛を負って人に仕える動物です。
 弟子達が地位・名誉に心奪われている時、主イエス御自身が必要とされたのは子ろばでした。「ろばのように」という当時の譬えは「愚かな」という意味で、神が用いられたのは能力や権力ある人ではなく、人から目に留められない乏しいままのろばでした。私達は様々な事で弱さや欠けを覚え不安に陥る事がありますが「主がご入りようなのです」(3節)と、お言葉をかけてくださっています。足りないちっぽけなこの私を用いて尊い御業をなさり、しかも主が先頭に立って神の国・天国の門を開けて力強く導いてくださいますから、感謝して精一杯お仕えできます。
 但し「だれも乗ったことのない子ろば」(2節)を求めておられます。「自分の用、この世の事」を優先してから余力でお仕えするのではありません。旧訳の時代にイスラエルの民は神にお献げものする時は初穂をささげました。神の御用を第一としてこの世の務めを終えた時、やがて天国から「主がご入り用」という声を聞いて天に帰る事になる私達です。