あなたの信仰があなたを救った

マルコによる福音書10章46~52節

 聖書には様々な重荷や痛みを背負いながら、苦悩を抱えて生きている人々が多く登場します。主イエスはそのような人々の叫びに、憐れみをもって向き合い、関わってくださいます。癒しをもたらし、神と共に生きる新しい人間に生まれ代わらせてくださる為です。人はどのような過去を背負って生きてきたかではなく、神に向かって生きて行くか、否か、によって決定されていきます。
 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47、48節)と、主イエスの憐れみを求めて、道端に座っている目の見えないバルティマイが必死に度々叫び続けています。主イエスは「何をしてほしいのか」とお尋ねになると「先生、目が見えるようになりたいのです。」と答えたのです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)と癒しが記されています。信仰とは神に信頼する事で、主イエスは弱い姿、あるがままを見つめて求めに応えてくださいます。神と人との関係は、私達が神から目を離さず信頼あるのみです。神は私達が弱いままの姿で、信頼する事を喜んで受け入れてくださる方です。
 彼は弟子達の如くこの世の地位や名誉を求めたのではなく(9:34、10:35~37節等)、主イエスの「憐れみ」を求めました。目の不自由な彼は主イエスの本質をしっかりと見つめていたのです。彼も弟子達も「先生・・・」(35、51節)と呼びかけていますが、意味合いが全く違います。彼は「ダビデの子イエス」(47節)と、救い主イエス・キリストとして呼びかけています。一方弟子達はどこまでも主イエスをこの世の範疇でしか見る事ができなかったのです。主イエスは憐れみ、慈しみを求める者には最高のものを与えてくださいますが、この世的な自分本位の叫びには、毅然として立ち向かわれます(10:42~45)。
 彼はその後「・・・なお道をすすまれるイエスに従った」(52節)と、主イエスの十字架の道に従っていきました。彼は癒されただけではなく、信仰が与えられました。癒されて感謝して救い主イエス・キリストの後に従いたい、ふところへ飛び込み込みたい、という思いが湧き上がったのでしょう。
 信仰は癒されて完結されるのではなく、主の後に従う所から始まります。このような神のとの交わりの体験を積み重ねていく事によって、人は造り上げられていきます。キリスト者といえども完全ではありませんから、全知全能の神から目を離さず信頼してく事で関係を持ち続ける事が、信仰の基となります。生ける神との交わりがその人を成長させてくださいます。