3度目の正直

マルコによる福音書10章32~34節

 主イエスがご自身の死と復活を予告する3度目の場面です。ここでは十字架を目前に、鮮明に人間の罪が露呈されています。全ての人の罪を救う為に十字架の道を辿られる神の御子に対して、人々は侮辱し、ののしり続けました。
 主イエスはエルサレムのヴィア・ドロローサ「悲しみの道」と呼ばれる1キロの道を十字架を背負い、最後の力を振り絞って歩まれました。そこに待っていたのは「侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。・・・」(24節)と、何ともむごい状況です。しかし、そのような人間の罪を暴いて反省しなさい、と仰せられるのではなく「・・・そして、人の子は3日の後に復活する。」(24節)それに続く復活の勝利を示されました。この世の権力者が力で牛耳って勝利を得たのではなく、自ら苦難を受けられた勝利者はイエス・キリストお一人です。
 「・・・キリストの苦難とそれに続く栄光・・・」(Ⅰペトロ1:11)「苦難」は「栄光」と対になっています。又、「・・・多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされた・・・」(ヘブライ2:10)と、「侮辱」「ののしり」の中を進まれる主イエスのお姿を通して、その後にある栄光を見せてくださったのが、十字架の出来事です。苦難の道、その極みである十字架の苦難こそ、私達の救いに至る道でこの苦難を避けては救いは存在しません。神にあってはどのような苦難も苦難では終わらない事を、主イエス御自身がその身を挺して証しされました。そこには愛の限りを尽くしてくださった神の愛があります。
 このように主イエスが積極的に、しかも全てを受け止め担い、勝利されましたから「・・・あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と、仰せになります。「あなたは既に罪赦された勝利者だから、天の御国の約束は確実だから安心しなさい。どのような苦難があっても大丈夫だから勇気を出して歩み続けなさい」。と、語り続けておられる主イエスにすがっていく所に希望の約束が用意されています。
 このように主イエスの復活の力によって生きる希望が与えられる為に、主イエスは御苦しみの中、私達の為に命をささげてくださいました。パウロは獄中の中ですらキリストの十字架の苦しみに与りたいとまで語りました。私達も苦難から逃れるのではなく、苦しみの十字架へと向かわれた主イエスを知る事を求め続けることによって、勝利を確信し感謝出来る者と変えて頂けます。

財産は悲しみのもと

マルコによる福音書10章17~31節

 キリスト者としての目標は唯一つ、この世の幸せを求める事ではなく、天国を目指して歩む事です。神を求めて生きる人に神はこの世での人生をも必ず最善に導かれます。「ときが巡り来たれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1:2~3節)の如くです。神に従う者は全てを祝福してくださるという約束が為されています。
 モーセの十戒を守り、一般的に見てキリスト者として模範的な資産家の青年が主イエスの元に走り寄り「・・・永遠の命を受け継ぐには、何をすれはよいでしょか」と問うています(17節)。あれもこれも「全て」してきた(30節)、という青年の主張に対して、主イエスは「一つ」欠けている事があると仰せられました(21節)。今迄積み上げてきたものの上に更に一つ加えるという意味ではなく、根本的なものが欠けているという事です。
 どんなに良い事を積み重ねてもポイントが外れていては無に等しいのです。肝心な事は善行ではなく主イエスに従う人です。「・・・持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい・・・それから、わたしに従いなさい」(21節)主イエスに従うという事は、今迄握りしめていたもの、頼りにしていたものを放棄して、180度方向転換して新しく生まれ変わる事が前提です。地上の延長線上に天国が続いているのではありません。
 「財産を捨てる」とはお金だけの事ではなく、握りしめて頼りにしているものです。又、お金持ちを否定されているのではなく、お金や物はあくまでも生きる為の手段であって、目的ではない事を示しておられます。人は多くの物を所有し、廻りに大勢の人がいると安心します。しかしそこには保証はありません。「・・・肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(Ⅰコリント15:30)あなたは所有物に頼るか、イエス・キリストを頼るか、どちらかを選択するのか、と問われています。
 しかし「・・・らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25節)と天国行きは難題不可能な事と思いますが「神にできる。神は何でもできる。」と仰せになります(27節)。先ず神が主イエスをお捨てになり、十字架にお架けになった事で私達は天の御国へと招かれています。私達も大切なものを棄てる事なしにこの救いの恵みに与れません。信仰とはこのようにこの身を預ける事です。そうした時、神はこの私を引き受けてくださいます。信仰こそが全てを満たすのです。

こどものように

マルコによる福音書10章13~16節

 神の国・天国(神の御支配の下にある祝福の場)に入る事ができる人は多くの経験や知識をもって自立した大人や、努力、善行を積む事ではなく「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15節)と、主イエスは仰せられます。マタイ18:3では「心を入れ替えて子供のようにならなければ・・・」と記されています。
 子供は可愛い、純粋というイメージを持ちますが、主イエスは具体的に大人の元に保護が必要である存在そのものに目を向けておられます。この世での定義をみますと、文部科学省やユニセフの子供権利条約にもその生存、成長、発達の過程で特別な保護、援助を必要とすると記されています。
 人間は神の似姿として創造され、神より命の息を吹き入れられて神の下に生きる存在とされましたから(創世記1~2章)、本来なら子供、幼子のように常に神の元に保護・援助されながら生きる存在です。100%神に信頼し「イエスさま、ありがとう」と神が愛してくださっている事を単純に心から受け入れ、その愛を分け与える人が神の国・天国に入る事ができます。
 しかし「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(Ⅰコリント13:11)残念ながら成長するにつれ、人は本来の姿を忘れてしまったのです。では、どうしたら取り戻せるのでしょうか。誰一人として自力で心を入れ替える事は不可能ですが、神だけが成し遂げてくださる恵みの世界にもう一度飛び込んでいくのです。
 「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(セファニア書3:17)いつも信じることは何か。それは神によっていつも私は愛されていると信じる事です。主イエスが十字架に架かって死んでくださったほど、私を愛して下さったという事を信じることです。故に「神様を信じていきたい。全てをお委ねして保護されて歩みたい」と祈る事ではないでしょうか。子供が親元で安心できるように、神の保護の元にある時、誰もが喜び、楽しみ、安らぐのです。キリストの救いは単純です。あなたを愛しておられるから、神の国。天国を差し出してくださっております。単純に「どうもありがとう」と受け取り、喜び感謝できる人は幸いです。

二人は一体となる

マルコによる福音書10章1~12節

 結婚・離婚は古の昔から人の人生を大きく分ける重要な事柄です。人はまず自分の思いを中心とし、又、社会的な法律ではどう取り扱っているのか、と、人間中心に考えるものです。しかし、神を知っている私達が問うべき事は、神との関係で聖書はどのように語っておられるかです。信仰をもって受け止められる事が祝福と恵みの基となり、人の歩を大きく分ける事となります。
 主イエスは結婚・離婚について、旧約聖書から明言しておられます。その発端は律法学者達の離婚に対する質問からでした(2節)。男尊女卑の古代社会は、夫達の身勝手な振る舞いが公然と認められるような状況でした。その事を踏まえて彼らの論争の根本は、夫のわがままの許容度に対する問題を議論していました。そこで主イエスは申命記24章1~4節の解釈について問われたのです(3節)。自分の欲望を遂げるため、都合の良いように拡大解釈し、曲解して利用しようとする者に対して厳しく告発しておられます(5節)。神は基本的には離婚を勧めてはおりませんが(9節)、モーセの律法は古代に離婚せざるを得ない境遇に泣く弱い立場にある人々を保護する掟でした。
 律法を問題にしている彼らに対して、主イエスは結婚に対する神の御意志に目を向けておられます。「彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)助ける者とは原語で「向き合う」という意味です。神を通して向き合うものとして神が結び合されました。「・・・二人はもはや別々ではなく、一体である」(創世記2:24)結婚は感情や自分達の意志を実現するためのものではなく、神が結び合せてくださり、一体となるのです。農夫が2頭の動物を一つの軛に結び合せその畑を耕作するように、神は一人の男と女とを結び合せ、神の御心を実現させるためにお用いになり、創造の喜びの中に入れてくださいました。結婚は神によって二人が軛につけられたようなものですが、そこに神の御意志があります。
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(エフェソ5:15)賢い者とは、感情や好みではなく信仰の眼をもって歩む生き方です。「主の御心が何であるかを悟りなさい」と繰り返し勧めています。神は永遠に変わる事のないお方です。私達罪人への愛を限りなく注ぎ出してくださいました。変わらない真実の中で信仰に満たされて夫に妻に隣人に向き合いながら生きて行ける私達です。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」信仰によってこそ向き合っていける恵みに感謝です。