財産は悲しみのもと

マルコによる福音書10章17~31節

 キリスト者としての目標は唯一つ、この世の幸せを求める事ではなく、天国を目指して歩む事です。神を求めて生きる人に神はこの世での人生をも必ず最善に導かれます。「ときが巡り来たれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1:2~3節)の如くです。神に従う者は全てを祝福してくださるという約束が為されています。
 モーセの十戒を守り、一般的に見てキリスト者として模範的な資産家の青年が主イエスの元に走り寄り「・・・永遠の命を受け継ぐには、何をすれはよいでしょか」と問うています(17節)。あれもこれも「全て」してきた(30節)、という青年の主張に対して、主イエスは「一つ」欠けている事があると仰せられました(21節)。今迄積み上げてきたものの上に更に一つ加えるという意味ではなく、根本的なものが欠けているという事です。
 どんなに良い事を積み重ねてもポイントが外れていては無に等しいのです。肝心な事は善行ではなく主イエスに従う人です。「・・・持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい・・・それから、わたしに従いなさい」(21節)主イエスに従うという事は、今迄握りしめていたもの、頼りにしていたものを放棄して、180度方向転換して新しく生まれ変わる事が前提です。地上の延長線上に天国が続いているのではありません。
 「財産を捨てる」とはお金だけの事ではなく、握りしめて頼りにしているものです。又、お金持ちを否定されているのではなく、お金や物はあくまでも生きる為の手段であって、目的ではない事を示しておられます。人は多くの物を所有し、廻りに大勢の人がいると安心します。しかしそこには保証はありません。「・・・肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(Ⅰコリント15:30)あなたは所有物に頼るか、イエス・キリストを頼るか、どちらかを選択するのか、と問われています。
 しかし「・・・らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25節)と天国行きは難題不可能な事と思いますが「神にできる。神は何でもできる。」と仰せになります(27節)。先ず神が主イエスをお捨てになり、十字架にお架けになった事で私達は天の御国へと招かれています。私達も大切なものを棄てる事なしにこの救いの恵みに与れません。信仰とはこのようにこの身を預ける事です。そうした時、神はこの私を引き受けてくださいます。信仰こそが全てを満たすのです。