新たに生まれ変わる幸い

ペトロの手紙一1章3~12節

 「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)人は新しく生まれ変わらないと天国に行く事はできないと、主イエスは仰せられます。新たに生まれるとは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けてクリスチャンとなる事です。それは神の新しい命が吹き込まれ、新しく造り変えられて、俗悪的な者からキリストに似る者とされるという変化が起きます。その事を「新生」という言葉で表されており、「・・・天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(4節)と、天国への約束が明確に記されています。
 新生は何か特別な事によって為されたり、努力して修行をするものではなく「・・・神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ・・・」(3節)と、神の一方的な恵みによるものです。クリスチャンはこの恵みに日々新しく感謝し「神に喜ばれるように仕えていこう」と、新たな目標が与えられ、最終的には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22)と変えられていきます。
 しかしこれらを私達は完成する事はできませんから、「私にはできませんが、イエス様はおできになりますから、あなたを頼ります。復活の力をこの時、この私に満たしてください。イエス様が私の主となってください」と、すがれば良いのです。新しく生まれた者は、自分の力を頼るのではなく、イエス・キリストに頼る人生を歩み始めるようになります。それは様々な試練を通して本物となっていきます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され・・・」(7節)とあります。
 旧約聖書の哀歌は、歴史的破局を経験したエルサレムの住民による叫びと訴え、憤り呻きがテーマです。しかし、苦闘の中で「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(哀歌3:22)と、神の慈しみと憐れみにすがっています。最終的に「主は決してあなたをいつまでも捨て置かれない・・・人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」(3:31~33)と、主の御心を確信しています。絶望が希望に逆転する道は、生ける神への信頼です。究極的な絶望の極みから立ち上がったのは、主イエスの十字架上での父なる神への揺るぎない信頼でした。新生した私達も苦難を通して主にしがみついて、いよいよ「本物と証明」されていきます。