再臨を待ち臨む

ペトロの手紙二3章8~13節

 「・・・全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん・・・」と、2000年以上世界のキリスト者は、主イエスが再びこの世においでになり、最後の審判によってこの世の終りの神の国が完成する、という約束を告白しています。「…義の宿る新しい天と地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(13節)と、審判を恐れるのではなく、この世の目を覆いたくなるような全ての悪の支配が終わって、神と共に歩む素晴らしい希望の世界を待ち臨みなさいと励ましておられるのです。
 主イエスは全人類の罪の為に十字架にお架かりになり復活後、天の父なる神の元に戻られました。現在は父なる神の右に坐しておられますが、再びこの世においでくださる約束が再臨です。しかし、主イエスは依然としてお出でにならないので、信仰を失くしてしまう人々が現れてきました(9節)。当時の人々のみならず私達は「待つ」という事が苦手なものです。「定められた時のために・・・たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、送れることはない」(ハバクク2:3)と、至る所に待ちなさいと記されています。一方、待ちきれずに祝福を逃した人々の事をも多く記されています(サムエル記上13章)。
 待てない理由として「自分の時・自分時計」を中心とし、神の時を知らないからです。「…主の元では、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(8節)神の時と人間の時とは全く違います。常に神の時を知るべきで、それは神の前に生きるという事です。「上のものに心を留め、地上のものに心引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:1~)神の御言葉を深く求め、祈りの座で教えて頂ける世界です。そのように養われていく事で地上のものに心奪われることなく歩む事が可能となります。とはいっても人は弱い者で地上の事に心を奪われ、神を忘れてしまいます。ですから、毎日の祈りと聖書のお言葉が必要なのです。主イエスの公生涯は十字架にお架かりなるまで忍耐の連続でしたが、最期まで神のみ言葉の前に生き抜かれ、勝利を得ました。
 主イエスは今も天において「・・・一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(9節)と、愛のご配慮の中で、執り成しの祈りを捧げておられます。私達は受け身的に再臨を待つのではなく、積極的に早められるよう「この卑しい私を今、聖別しておもちくださり、全ての人が救われますように」と祈りつつ、喜んで待ち臨む者でありたいです。

神の癒しの恵み

ルカによる福音書11章9~13節

 >今月は私達が属するホーリネスの群れの「四重の福音」強調月間ですので「新生・聖化・神癒・再臨」を順に学ばせて頂いていますが、今回は「神癒」です。正に神からの癒しです。聖書には「・・・あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい・・・病気の人は・・・祈ってもらいなさい・・・」(ヤコブ5:14~16)神癒の恵みを頂く大切な条件は祈りです。神の力を信じて祈る事が求められていますので、改めて祈りについての心構えを共に学びたいと思います。
 
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・自分の子供には良い物を与えることを知っている・・・」(9~13節)神の力を信じて諦めずに切に願った時に応えてくださいます。しかしここで確認したい事は、私達の願い通りに全てが応えられるという事ではありません。親は子どもの事を思い、何でもいうなりにならないように、神も同様に神の判断によるものです。
 38年間も患っている病人に主イエスは「良くなりたいか」と問われている場面があります(ヨハネ5:6)。病人が良くなりたいのは当たり前ですから残酷な質問のように思います。しかし、人は病の重圧で不安に陥ったり、遂には諦めてしまう弱さを持っています。主イエスは「痛いか、苦しいか」とは聞かれません。「良くなりたいのか、なりたくないのか」どちらかです。他の場面でも、「私を信じるか、信じないか」と問うておられます。私達は常に「ハイかイイエ」と答えるのみです。信仰の世界は100%信じるか否かです。このように信仰とは私達の感情の働きではなく、神への明確な意志の表明です。
 その結果「天の父は求める者に、聖霊をくださる。」(13節)と、約束されています。聖霊とは、神ご自身が私達と共に働いてくださる力です。その事によって自分の全存在をかけて神の声に耳を傾ける事ができます。病の苦しみ痛み、心配からどうしても切り離す事ができずに苦しむのですが、祈りによってそのような不信仰や弱さを解放して頂けるのが聖霊の力です。そうして心の内の深みへと意識できるようにさせて頂ける恵みを頂きます。もう既にこの時から神の癒しは始まっています。パウロの如くに癒されない病もありますが、全存在をかけて切に祈り続けるなら「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(Ⅱコリント12:7)という主のお応えをお聞きし感謝できる者となるでしょう。

あなたがたは選ばれています

ペトロの手紙一2章1~10節

 教会は主イエスが復活され天に帰られた後、弟子達が心合わせて祈っていた時に聖霊が降って誕生しました(ペンテコステの出来事)。それ以来、聖霊のお働きによって教会の御業は今も前進し続けています。その為に主イエスという頭の元にキリスト者である私達が霊の家=教会を造り上げていくようにと、主イエスは仰せられます(1~5節)。「・・・あなたがたは、選ばれた民・・・神のものとなった民です。暗闇の中から驚くべき光の中へ招き入れてくださった方の力ある業を・・・あなたがたが広く伝えるためなのです。」(9~10節)
 「あなたがたは、『かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみをうけなかったが、今は憐れみを受けている』」(10節)憐れみによって主イエスの救いに与ったキリスト者は、天国に行く事が約束されていますが、その約束に留まって落ち着いてしまうのではなく、主イエスを慕い求めながらキリストの御業を宣べ伝え、主イエスを頭として一人一人が結び合わされて、主イエスと共に教会を建て上げていく事が求められています。
 教会の頭であるイエス・キリストについて「主は人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(4節)「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」と記されています(7節)。
 隅の親石とは石を積んでアーチが造られる、その一番上の真ん中に据えられる石の事を指します。その石がしっかりと頂点にはまる事によってアーチ全体が堅固な構造物となります。その石がはずされるならアーチ全体が崩れてしまうという、最も大切な隅の親石となってくださったのが主イエスです。
 罪人である私達が、主イエスを見捨てて十字架に架けました。しかし捨てられた主イエスは神によって尊い石・生きた石となって、私達の教会の頭として今も救いの完成を目指してその御業を進めておられます。
 神を見捨てた私達を、神の御心に適う教会を建て上げていく生きた石として選んで用いてくださり、そうして聖なる者と成長させて頂けるのです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる・・・わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し・・・恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43:1~4)私達が欠けだらけでも、問題があっても、隅の親石であるキリストが頂点である限り、私達を守り導いて主の御業を進められます。そして神は「貴いあなた」が必要だと、今日も選んでくださっています。

きずや汚れのないキリストのように

ペトロの手紙一1章13~20節

 私達は目の前の苦しみや痛みを取り去って頂きたい、日々、平安な穏やかな人生を送りたいと待ち望むものです。しかし、神は「・・・イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(13節)その為には「あなたがたは聖なるものとなれ・・・」(16節)と仰せられます。そもそも「聖」とは、通常のものから区別されている、分離という意味です。神は人間を超越した、全く違った別格の御方です。この事を「神は聖なる方であられる」と表わしています。
 罪、汚れに染まっている私達に「聖なるものとなれ。わたしは聖なるものだからである」(16節)、という御命令は無理難題と思われますが、明確な根拠があるから要求されるのです。それはイエス・キリストの十字架の死と復活によって、あなた方は罪赦され、新しく生まれ変わり既に神のものとされているという前提です(18~25節)。罪救われた時から既に、主イエスによって私達を聖別してくださって神に属するもの「聖なるもの」とさせて頂いています。
 故にこの世の人々と同じような生活をするのではなく、分離されたものとなりなさいという事です。それは隔離されて仙人のような生活をしなさいという事ではなく、又、神を知らずに救われていない人を差別して、驕り高ぶりを持って生活せよ、という事でもありません。神の者とされた自覚を持つ事です。
 神の方からこのように全てを整えてくださったのですから、私達は「いつでも心を引き締め、身を慎んで・・・」(13節)、と畏れをもって神の御前に立ち続け、神との関係を持ち続ける事によってのみ「聖なるもの」とさせて頂けます。どのように立派な物であっても、神との関係がなければ単なる物でしかありませんが、例え粗末な物であっても、神のご用の為に用いられるなら、それは貴い物と聖別されるのです。それと同じように私達は神の前に立ち続ける事によって、神に用いられて確実に「聖なるもの」とさせて頂き、成長し益々尊い「聖なるもの」とさせて頂けます。
 宗教改革者ルターは信仰の行為を藁一本でも貴いと言っています。神に感謝してそれに応える行為であるなら、小さい行為でも貴いのです。神の感謝から神への行為は生まれ、感謝と喜びがなければ神に従う事はできません。私達の目標はやがてイエス・キリストが再びおいでになられた時に、天に挙げられる事です。この最高の喜びに備える為に感謝して聖なる者とさせて頂くのです。

新たに生まれ変わる幸い

ペトロの手紙一1章3~12節

 「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)人は新しく生まれ変わらないと天国に行く事はできないと、主イエスは仰せられます。新たに生まれるとは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けてクリスチャンとなる事です。それは神の新しい命が吹き込まれ、新しく造り変えられて、俗悪的な者からキリストに似る者とされるという変化が起きます。その事を「新生」という言葉で表されており、「・・・天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(4節)と、天国への約束が明確に記されています。
 新生は何か特別な事によって為されたり、努力して修行をするものではなく「・・・神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ・・・」(3節)と、神の一方的な恵みによるものです。クリスチャンはこの恵みに日々新しく感謝し「神に喜ばれるように仕えていこう」と、新たな目標が与えられ、最終的には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22)と変えられていきます。
 しかしこれらを私達は完成する事はできませんから、「私にはできませんが、イエス様はおできになりますから、あなたを頼ります。復活の力をこの時、この私に満たしてください。イエス様が私の主となってください」と、すがれば良いのです。新しく生まれた者は、自分の力を頼るのではなく、イエス・キリストに頼る人生を歩み始めるようになります。それは様々な試練を通して本物となっていきます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され・・・」(7節)とあります。
 旧約聖書の哀歌は、歴史的破局を経験したエルサレムの住民による叫びと訴え、憤り呻きがテーマです。しかし、苦闘の中で「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(哀歌3:22)と、神の慈しみと憐れみにすがっています。最終的に「主は決してあなたをいつまでも捨て置かれない・・・人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」(3:31~33)と、主の御心を確信しています。絶望が希望に逆転する道は、生ける神への信頼です。究極的な絶望の極みから立ち上がったのは、主イエスの十字架上での父なる神への揺るぎない信頼でした。新生した私達も苦難を通して主にしがみついて、いよいよ「本物と証明」されていきます。