まだ分からないのか

マルコによる福音書8章11~21節

 父なる神は独り子であるイエス・キリストをお与えになるほど、私達を愛し、永遠に慈しんでくださり、人間側が求める前から全ての必要を恵みとして与えてくださっております。私達の人生は初めから終わりまで、既に神の恵みの奇跡によって支えられております。信仰生活は神の恵みを恵みとして受け取る事、神の奇跡を信じると言う事です。
 しかし弟子達の現実はというと、奇跡の出来事を幾度も経験させて頂たにも拘らず、その恵みによって生かされていませんでした。私達も同様です。「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は幾つあったか・・・7つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、いくつあったか。・・・」(19~20節)  目の前の出来事しか見えていない弟子達に、再度、主イエスの恵みに目を向けさせようと、たたみかけて問うておられます。
    
 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」(15節) パン種とは聖書において「悪いもの」の代名詞として使われています。律法を守る事に必死になり、人の目を気にして人を裁くような生き方をしているファリサイ人や、権力に固執するヘロデのような、廻りの人々の信仰生活に悪影響を及ぼす人々に注意せよ、戒めておられます。どちらも自分中心、人間中心の生き方で、私達の心の内にも同じようなパン種は存在しています。主イエスの心からの願いは、私達が神の恵みを中心に据えた信仰生活を送る事です。
 イスラエルの民が砂漠で飢えに直面した時、40年間天からのマナによって養われた事が旧約の出エジプト記6章に記されています。神は天からのマナを与えられましたが、これは食糧の問題だけではありません。全てのものが神から与えられる事を教えるためです。「・・・まだ、分からないのか、悟らないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。・・・」(17節) 主イエスはこのお言葉を断腸の思いで語られたのではないでしょうか。
 クリスチャン生活とは、自分が努力する事ではなく「主の恵みによって生かされている」ことを知ることです。主イエスの元に、全ての恵みと力の源があります。神からの恵みをこの手で受け取り続ける事です。奇跡を感動し、感謝しているなら、この世の出来事に振り廻される時間はなくなるでしょう。

けがれを清める

ルカによる福音書5章12~16節

 イスラエルの人々は重い皮膚病を神の御業(出4:6-7)、神が怒りを下し(民12:9-10,王下5:27,15:5,代下26:19)、神のみが清め給う(民12:11-15,王下5:14)と考えた。人々は儀式的に身体の汚れを水で洗い清めたが、重い皮膚病だけは自力で清められなかった。この不治の病に冒された者は宿営の外に独り野宿し、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、不用意に近づく者に向かって「ターメー、ターメー(わたしは汚れた者です。汚れた者です)。」と悲痛な叫び声を上げた(レビ13:45-46)。私たちも傍目には敬虔なキリスト者、罪から遠く離れた者のようだが、心の内は罪・咎・汚れに満ちている。それは自責の念に苛まれ、無言の悲痛な叫び声を上げている私たち自身が、誰よりもよく知っている。
●「御心ならば」という信仰…ある町の外に全身重い皮膚病の人がいた。彼はこっそり町に入り、イエスを見つけ、地に額をすりつけ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と祈り求めた(12)。彼の行為は、神以外に頭を下げず(出34:14)、神のみが重い皮膚病を清め給うというユダヤ人の常識を逸脱していたが、主イエスを神と崇め、自分の汚れを告白し、清めを求める彼の信仰を主は喜ばれた。
●「よろしい、清くなれ」…誰一人として触れようとしなかった彼に、主イエスは躊躇なく御手を延ばして触れ、「よろしい(=わたしの心だ=私は望む)、清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った(13)。イザヤ53:4aの如く、主は彼の病と汚れを担われたのである。「よろしい、清くなれ」は「よろしい、あなたの重い皮膚病も私が全て担おう。あなたは清くなれ。」との意である。
●主を信じ、清めて頂こう…私たちが外見上の「敬虔さ」や「自尊心」を脱ぎ捨てて、主に平伏し、心の内に秘めた罪・咎・汚れを赤裸々に主に告白し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と祈り求めるならば、私たちがどんなに罪・咎・汚れに満ち、誰からも見放されていようとも、主は私たちを深く憐れみ、触れて抱きしめて下さる。私たちの病を担い、汚れを引き受け、私たちの苦しみ・痛み・悩み・悲しみ・哀れを知り、涙して下さる。私たちは「よろしい、清くなれ」との御声とともに、たちまち清くされるのである。それがイエス様の御心であり、イエス様の望みである。主イエスがこの地上に来られた目的は、私たちを清めること、私たちの罪を取り除くこと、そして天の御国へ、真白く清められた私たちを神の子として天のお父様の所へ帰すことである。私たちが祈り求めるならば、主は必ず私たちを清めて下さる。主を信じ、主の十字架の贖いを感謝し、全く清めて頂こう。主の恵みを世の全ての人に宣べ伝えよう。在主

いったいどこから

マルコによる福音書8章1~37節

 4千人の人々が7つのパンとわずかな魚によって満たされたという奇跡の出来事が記されています。同じように6章30節以下においては5千人の人々が5つのパンと2匹の魚によって養われたという出来事が記されています。弟子達は神の御業を見せて頂きますが、暫くして新たな困難な場面に遭遇すると以前の恵みは忘れ、不安に陥るのです。私達も同様です。そのような者に神は何度も繰り返し教えておられます。「群衆がかわいそうだ・・・」(2節)と、ありますように、そこにあるのは唯、神の憐れみです。
 「かわいそうだ」(2節)とは、「憐れむ」という言葉です。それは単に同情するというような意味ではなく「内臓が揺り動かされる」程の痛みを伴うほど、心が痛むという強い意味です。7章34節においても「天を仰いで深く息をつき・・・」と、主イエスは苦しみを覚えている者、色々な意味で飢えている者を深く憐れんで、神の方から私達との関わりを持ってくださっております。
 これらの給食の奇跡において、自分の力でどうしようもない、という問題を前にして主イエスは自分達の手にあるものを確認させ、持っている僅かなもので満たしてくださっております。様々な事を通して「これしかない」「いったいどこから」(4節)と、嘆き不安に陥りますが、心配する必要はありません。常に主イエスは私達の困窮を憐れんでくださり、手元にある僅かなものを祝福してくださり、満ち溢れる恵みを与えてくださるお方ですから。これが私達の信仰です。
 主イエスはこれまでガリラヤ湖畔を中心に福音を宣べ伝えておられましたが、いよいよこの後、ご自身の十字架の受難の死と復活を教え始めます(8:31~)。その前に主イエスは、憐れみの主であることを示されました。裁きを行われる神が「憐れみの神」でもあることを。罪人を憐れんでくださるお方ですから、私達は救いに与っているのです。そうでなかったら滅ぼされています。
 自分の手元にある僅かなものしか見えず、そこに固執し頑固で神の憐れみが分からない鈍い私達です。しかし、その憐れみにすがって生きるように、主イエスは命を惜しまず私達に与えてくださったのが、十字架の出来事です。
 「いったいどこから」と、嘆く私達に「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(詩編121:2)と、神の憐れみが顔を上げさせてくださるから、私達は歩む事ができるのです。憐れみにすがる者を神は祝福してくださいます。

すべてがすばらしい

マルコによる福音書7章31~37節

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(37節)
 主イエスによる癒しの記事ですが、単なる癒しではありません。神は私達に神を見る為の目を、神の声を聞く為の耳を、神を賛美する為の口を与えてくださいました。しかし、私達はこの世の罪に埋もれて、耳は罪で塞がれて神の御言葉が聞こえず、神が喜ばれる言葉を発する事ができずに、聞かなくても良い言葉聞き、罪ある言葉を発しているような者です。「耳のある者は聞きなさい」と幾度も主イエスは仰せられます。
 そのような憐れな人間を主イエスは深い悲しみをもってご覧になり、主イエスの前に一人立たせて直に耳と舌に触れてくださり、罪で詰っているその耳を、神の言葉を聞く事ができるようにしてくださいました。「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』これは『開け』という意味である。」(33~34節)宗教改革者マルティン・ルターは、主イエスの前に一人立つ所においてこそ、信仰は成立すると言っています。たとえ私達がどん底で、神の御声を聞けず、一人で喘いでいるとしても、主イエスがそこにおられ、「開け」と、声をかけてくださっております。人は神の前に立たされて「汝と我」=「神と私」の一対一の関係を持つ事によって、本当に生きる者とされます。これは私達が週毎の礼拝において経験させて頂いています。罪の束縛の中で呻き苦しんでいる私達を解かれるために「群衆の中から一人連れ出し、開け」と、神のお言葉を聞かせて頂き新しく造り変えられて又、それぞれの場へと遣わされていきます。
 人のお金をくすねて自分の懐を肥やしていた取税人のザーカイは「木から降りてきなさい・・・」(ルカ19:1~10)と、神の声をお聞きし、目からうろこのように過去の生活の非を知り、主イエスを自分の人生の主とする新たな人生を歩み始めました。神の御声をお聞きするという事は価値観が逆転するのです。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」(イザヤ35:5~6節)神の御声を聞かせて頂いた者は、何もかも素晴らしい変化が起きます。罪にまみれた私達は今や、子鹿のように山も谷も飛び越え、新しい息吹を蒔き散らす存在なっています。