それほど言うなら

マルコによる福音書7章24~30節

 神を信じるといいながら、祈りが聞かれなかったり、自分の思い通りに事が運ばないと絶望し、自分の都合で神を疑うような事をしていないでしょうか?
 「それほど言うなら、よろしい・・・」(29節)主イエスに何度も拒絶されてもひるまず、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28節)と、こぼれ落ちる僅かな残りの祝福を求め続ける母親の思いに、主イエスは心を動かされたのです。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と、ヤコブの如くに勝利を得るまで、主イエスのその足元にひれ伏し続ける真剣な信仰を神は求めておられ、又、いつも試されている私達です。
 主イエスを信じるとは、彼女のように絶望的な状況であろうとも神への信頼を貫き通し、諦めずに神の憐れみを乞い、主イエスにすがりついていく事です。この彼女の真摯な行動は信仰者の模範となって、世々語り告げられています。
 彼女は「…キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました…」(エフェソ2:12)と、あるような異邦人でした。神の御計画は、先ずイスラエルの民を悔い改めさせて救う事で、異邦人の救いは後回しでした。しかし、彼女の切なる求めによって、本来の計画がひっくり返って異邦人伝道へと展開し、キリスト教の歴史が変わったのです。
 「後のものが先になる」と、信仰の世界はどんでん返しがあります。イスラエルの民のように「先に選ばれた」と、驕り高ぶっているなら祝福から退けられ、遜ってこぼれ落ちる僅かな祝福を求め続ける者は異邦人であろうと、神は憐れんで先に救ってくださるという事が起きます。
 この聖書箇所の前後に5千人と4千人の給食の奇跡が記されています。共通する事は「僅かな小さなもの」があまりあるほどの豊かな祝福へと繋がっていく事です。本日の箇所もこぼれおちる僅かなパン屑を求めた事によって全世界へと福音が広がっていきました。からし種の小さな恵みから信仰は始まります。
 信仰とは当たり前のものを当たり前に頂くものではなく、謙遜に小さなこぼれ落ちるようなひとかけの恵みを忍耐をもって求める事です。人が救われるのは、唯一神の一方的な憐れみですから、私達はその憐れみにしがみつくよりほかないのです。神を信じる者の中には聖霊なる神が働いてくださり、「それほど言うのであれば・・・」と、私達を憐れんでくださいます。

心の中にあるもの

マルコによる福音書7章14~23節

 「・・・皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(14~16節)人は外から入ってくるものによって汚れると信じている人々に対して、あなたがたの心から出てくる悪い思い「罪」が人を汚すのだと、主イエスは仰せられます。問題は、あなたがたの内側にある心だと・・・。マタイ福音書においては「・・・口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」と、私たちの心の中に入っているものが言葉となって現れ、心の中が問われています。
 「舌を制御できる人は一人もいない」(ヤコブ3:8)と、多くの方が自分の発する言葉によって、大なり小なり苦い経験をした事があるのではないでしょうか。そもそも「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8章21節)と、はるか旧約の時代から神は嘆いておられます。人間としてこの世に誕生した私たちは「罪」に縛られている故に、心の中にある悪い思いが常にあるのです。
 しかし、神は人間を断罪したのではなく、この罪から救おうと神の憐れみによって、イエス・キリストを私たちに送ってくださいました。罪から救われ、きよめられるのは自の努力によってではなく、私たちの身代わりに十字架に架かってくださったイエス・キリストを信じる事のみです。主イエスの元に身を寄せているなら、心の中には自ずとキリストの良いものが与えられていきます。
 私たちが日常発する言葉は、日々の生活においてどこを見て、どのような姿勢で生きているかによって現れ出ます。信仰は聞くことから始まる、というように、神の前に立ち、神に聞く事によって私たちの生活の全てが始まります。このように言葉と行動に現れてきますから、御言葉を行う人になりなさいと、主イエスは仰せられます。御言葉を行う事は、人間の義務であるというような事でも、戒めで縛るもありません。御言葉を聞いて従った時に初めて神の愛と神の言葉の真実さが分かってきます。そうして神の言葉は、私たちを励まし、勇気付ける希望の言葉、生かす言葉だという実体験を重ねていく内に私たちの心の中には、神の恵みの言葉を蓄えられていくのです。
 私たちはキリストの言葉によって生かされているように、今度は私たち自身が、人を生かす神の言葉を発する者とさせて頂いているのです。常に神の場所から出た言葉、暗闇を照らす光となっている私たちであると信じたいです。

何に従うのか

マルコによる福音書7章1~13節

 主イエスの元にやって来ても、主イエスを見上げるのではなく、そこに居る人々に心を囚われているファリサイ派、律法学者の人々の様子が記されています。彼らは神の御心に生きたいと神に目を向けていた筈ですが、いつのまにか人の言葉に従い、人の評価を求めるような歩みをしていました(1~5節)。
 自らを信仰深く歩んでいると信じていますが実は神から遠く離れ、神と自分をすり替え、果ては神を冒涜するような危うい存在となっていたのです(6~13節)。神に信頼して導かれるなら豊かな歩み保証されているにも拘らず、神の掟である律法を完全に守る事に必死になり、新たに人間が作った「人間の言い伝え」(9節)に従い、人の言葉と自分の力に頼っていたのです。
 私たち罪びとは、律法を完全に守る事ができない故に、神の愛と憐れみによって、主イエスが私たちの罪の代わりに十字架に架かってくださいました。神を信じる者は律法の束縛から解かれ、神の御手の中で喜びと恵みに生きる事を赦されるようになりました。「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラテヤ3:24)、律法は人を裁く事が目的ではなく、神の掟を知る導き手であり、正しくない自分を知って神の元に赦しを乞うためのものです。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテヤ2:16)人は良い行いによって罪を赦されるのではなく、主イエスを信じる事によって罪赦され、永遠の命の祝福へと導かれる恵みを与えられるのです。しかし彼らは神にお委ねするのではなく、自らの力で正しく生きようと自らを律法で縛り、自分や廻りの人々を苦しめるという本末転倒な生き方になっていました。
 「ユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え・・・導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか・・・あなたは・・・神を侮っている」(ローマ2:17~23)キリスト者として、主イエスの福音を人に伝える一方で、現実の生活はその教えに伴っていないと、実に耳の痛い話です。これは私たちにも向けられている言葉だと思います。神のお言葉に従っている自分を誇り、素直に神の恵みに感謝できず、福音を喜ぶ事ができない愚かな者になっていないか、自分に問いかけたいです。

夜は更け、日は近づいた

ローマの信徒への手紙13章11~14節

 「夜は更け、日が近づいた、だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。」(12節)今年、私たちに与えられた教会標語です。
 当時1世紀半ば過ぎ、人々は様々な抑圧の中で生活の不安を抱えて暗い時代に生きていました。そこでパウロは「…あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)と、ローマの信仰者に向かって、暗闇に向かって生きるような生き方ではなく、朝に向かって生きるような生き方をするように勧めています。
 夜は更けていよいよ闇は暗くなっていきますが、夜明け前が最も暗いと言われるように、この暗闇は確実に「朝に近づいている時」です。キリスト者は「日が近づいている時」を信じていますから、今を絶望せず投げ出さない生き方に導かれていきます。
 13節に記されています「酒宴と酩酊」は現実逃避の生き方を表し、「淫乱と好色」は自分の欲望を満たす生き方、「争いとねたみ」は、希望のない人の生き方です。このような罪の世界・暗闇は人間が作っています。この世の人はこれらに巻き込まれながら苦しんで尚、闇を彷徨う生き方をしているのが現実ではないでしょうか。しかし、神を信じる者は「今の時」が、朝に向かって、希望に向かって生きていく時、自分の生き方を見据えていく時だという事を知っています。今、自分が歩んでいる時が暗闇と思うなら、人は暗闇の歩み方しかできないものです。
 「酔生夢死」という言葉がありますが、酔っぱらったように生き、夢のように死ぬ人生の事を言うそうです。私たちは決して意味のない、訳の分からないような人生を送って、虚しくこの命を終えるのではありません。キリストを信じ、キリストの復活の命に結ばれた者として、朝が来る事を待ち望みつつ、キリストの栄光を受けながら生きていくのが、本来の私たちの生き方です。
 主イエスが私たちの罪の為に十字架にお架かりになり、復活された勝利が既に私たちにも与えられています。故に私たちは朝に向けて、身を伸ばしながら前に向けて歩める恵みを頂いております。主イエスに顔を上げるならば、たとえ今迄どのような生き方をしていようとも、神はその罪を問うお方ではありません。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」(13節)と問いかけられている私たちです。