満たされる秤、持っています

マルコによる福音書4章21~25節

 ヨハネによる福音書では「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)と、主イエスを「光」と表わしています。又、主イエス御自身を「ともし火を持って来る・・・」(マルコ4:21)と、譬えておられます。「ともし火を持って来る」の直訳は「ともし火が来られる」で「主イエス御自身が来られた」となります。
 私達を暗闇の罪の支配から、光の世界・神の御支配の中に招いてくださる為に主イエスは恵みの光・ともし火として私達の所に来られました。故に「聞く耳ある者は聞きなさい、何を聞いているか注意しなさい」(23~24節)と、主イエスが語られる御言葉を、注意深くお聞きする事が求められています。
 私達はしばしば御言葉を概念的に理解しようとしたり、「これは私にとって必要、これは今の自分には受け入れられない」と、御言葉を選り分けてしまう事があります。それではせっかく灯された火を消してしまうようなもので、本来の意味を失くす事だと主イエスは語っております(21節)。「自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」(24~25節)
 この私に語ってくださるお言葉として、御言葉と向き合いそこに自分の身を置いた時に、お言葉の本来の役割を果たし、人を生かす為に光輝くものとなって100倍の実を結ばせてくださいます。これに対して御言葉を選んで自分の秤に入れてしまって、神の恵みを損う事もあります。
 「聞く」とは「従う」という同じ言葉からきています。「行ないが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)御言葉に従えない自分があります。しかし神が語られる御言葉は、そもそも暗闇から光の中へと招いておられる神の愛から来ているもので、束縛する為ではなく人を生かす為の憐れみと恵みです。従う事は学び得る事ではなく、神の愛と恵みを受け、その恵みによって生きて行く事が従う事です。主イエスを十字架に架けるまで私達を愛してくださった神の愛の御言葉を入れる秤は、既に与えられています。
 主イエスの光・ともし火を消さない為に「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上3:10)と、御言葉をお聞きする事に徹底していきたいものです。聞き続ける事によって私達は自分の秤が、恵みの御言葉で満たされていきます。御言葉を実践的にお聞きし、光を放つ者とさせて頂きましょう。