神その中にいませば都は動かじ ― 臨在不動 ―

詩編46編

 現代は「不安の時代」と言われます。詩編46編は激動の詩です。大地が揺れ動くような歴史的な大激動のただなかに詩人はいます。しかし、この詩は、大激動にも動じない、不動の信仰、大信仰の詩でもあります。「神その中にいませば都は動かじ」。アーメン! いつこの間のような地震が、また、別の災難が押し寄せてくるか分りません。しかし、信じる者は恐れません。神と共なるがゆえに恐れません。大事なことは十字架の贖いを信じて、神と和解し、救いを得ることです。神の臨在と共に歩むことです。ハレルヤ。
【詩編第46編の概略と区分】
 さて、詩編46編は、ルッターの愛唱の詩として名高いものです。1517年10月31日、修道僧マルチン・ルッターが、ヴィッテンベルグの城門に95箇条の提題を掲げ、ついに宗教改革の火蓋が切られました。この詩編は「宗
教改革の鬨の声(War Cry)」とも呼ばれます。預言者イザヤの影響を受けたと思える預言者的詩人の霊感あふるる詩です。この詩の堂々たる調子は「創造、歴史、終末」というような広大なスケールがテーマとなっていること、また神が三人称で描かれ、その叙述には多くの名詞が使用されていることによると言われます。A・バイザーによれば以下のような構造になっています。
  2-4節 創造:神の創造の世界が原始の大海に飲み込まれるような激動のさま。
  5-9節 歴史:神のいます都の平安と諸国民の騒乱と戦争。
 10-12節 終末:神の驚くべきみ業としての平和。全世界での神礼拝。
【メッセージのポイント】
1) 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
   苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2節)
 ⇒ 浪沌のただ中にあっても恐れるな!
 第一部(2-4節)には大激動の時代が描かれます。大地が破壊され、不動と思われていた山々が海の真中に飛び込むような、また、原始の大海が泡立って怪物のようになり轟く様が歌われています。天地創造の際に神の秩序によって支配された「混沌」が勢いを盛り返し、人間の世界を飲み込もうとする姿をここに見ることができます。ちょうど、ビデオを逆回しにしたような、つまり、創世記1章の混沌から秩序へと言う歩みではなく、秩序から混沌へ、創造から破壊へと世界が動いているように感じられたのです。
 しかし、この驚天動地の現実のただ中で、この詩人は「恐れない」(3節)と断言します。神が共におられるからです。神は「現場におられる神」(矢内原忠雄)だからです。
 現代は、激動の時代です。人間の物質面でも、精神面でも、大激動が起こっている時代です。昨年の3月11日の東日本大震災を例に挙げるまでもなく21世紀に入って、猛暑や大きな台風被害、異常気象や、地震の報道に驚かされます。また、相次ぐ戦争とテロのニュース。精神界の混迷はわれらの想像を超えています。21世紀は激動の時代です。それを目を覚まして知らねばなりません。
 わたしどもが所属する日本キリスト教団ホーリネスの群にとって、今年は「弾圧70周年記念の年」です。今日も午後3時半から赤羽教会で「ホ群首都圏弾圧記念聖会」が開催されます。お時間のある方はぜひ、ご参加下さい。
伊藤馨師の証し:わたしどもの教会の先輩に伊藤馨という先生がおられました。先生は札幌で長い間伝道されましたが、1942(昭和17)年6月26日の東条英機軍事内閣のもと、治安維持法違反で検挙、投獄されました。激寒の北海道はマイナス数十度になります。凍傷と戦った先生の投獄の証しは我等に襟をたださせるものがあります。「凍傷のために鼻は大福のように大きく紫に腫れあがり、やがて黒くなった。4月には雪解けがするように、わたしのからだが崩れだし、腐れだし、その臭気に悩んだ。両足の指、くるぶし、ひじ、耳、そして腰へと来た。手足は崩れて肉が出る。血がだらだらと出る日があり、足の親指は腐れて骨まで、ついに切断せねばならぬと医師が考えねばならないほどになった」と先生は後で記しています。しかし、多くの方々の祈りに支えられて、奇跡的に癒され、終戦を迎えられました。先生の獄中記は「恩寵あふるる記」と題されました。この詩人の様に「現場におられる神」への信仰が、地獄のような現実を「恩寵あふるる世界」へと変えて行ったのです。
2) 「大河とその流れは、神の都に喜びを与える
   いと高き神のいます聖所に。
   神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
   夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」(5-6節)
 ⇒ 臨在不動の信仰を!
 第二部(5-8節)は場面が急に変り、静かな、静かな川の流れ、朝もやたなびく清い神の都の描写で始まります。疾風怒涛、轟音とともにこの世を飲み込もうとする激動の現実を描写する第一部とは対称的に、神の平安と守りの清らかな神の都の世界が歌われます。口語訳聖書ではこのように訳されました。「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。」これが詩人の魂の現実であり、神の平安のある所、聖霊の恵みに憩う救われた者の霊的な現実なのです。
 山崎鷲夫師編集の「戦時下ホーリネス弾圧の証言」には多くの方々の投獄の体験が記されています。中でも淀橋教会の小原鈴子先生の証しはすばらしいものです。御主人の小原十三司師が投獄されて、70日目にようやく面会が許され、面会室であった時の証しです。
 「留守になりましてからちょうど70日目に調べ室で面会が許されました。主人のおりました留置所は昼もすすけた高窓から薄暗い電灯が陰気な光を投げており、いきれ臭い耐え難い臭気が流れ出ています。時には3畳間に16人も詰め込まれ、横にもなれないという所、その所に40日も居続けた主人を見るのですから、どんな疲れた姿であろうかと一種の恐れをもっておりましたが、一目見ました時、一切の杞憂は拭い去られ、「神共にいます」山から下りてきたモーセの顔の輝きを想像するものが漂っておりました。……略……」。
 激しい試練の中にも、主の臨在のある所は常に不動の信仰があり、勝利に満ちているのです。ハレルヤ。
3) 「力を捨てよ、知れ わたしは神。
   国々にあがめられ、この地であがめられる。」(12節)
 ⇒ 歴史の完成と全世界での礼拝!
 第三部の9-12節では詩人は終末に起こる神の歴史支配の完成を歌っています。やがて、神の驚くべき救いのみ業が到来します。神は戦争を止めさせ、弓を折り、槍を断ち、戦車を火で焼き、「静まって、わたしこそ神であることを知れ!」(口語訳)と語られます。人間の画策をやめて、主に祈り、真実な礼拝をささげる事をこの詩は教えています。歴史の完成は神礼拝で終わるのです。天地創造の神のみ業は、人間の歴史を貫き、世の終末に至りますが、その全てが神賛美であり、その最後は栄光の神への礼拝で終わるのです。
 1969年12月21日、わたしは日本基督教団練馬開進教会という教会で洗礼を受けました。19才の時でした。わたしはそのころ絵描きになろうと思って、美術の予備校に通っていました。19才のわたしは自分の生きる道を真剣
に求めていたのでした。一時はヘルメットをかぶって、新左翼運動に加わったこともありました。けれども、何をしても心の平安が得られませんでした。わたしのうちには深い罪意識があり、心の最も深いところでは、罪の許し
を求めていたのだと思います。そして洗礼の時がやって参りました。胸がどきどきしました。市川牧師が「深谷春男、われ汝に父と、子と、聖霊の名によってバプテスマを授ずく!」と宣言して、わたしの頭に水をかけられた。その水が襟首から背中に流れ、冷やりと感じた時に、「救いが来た!」と感じました。
わたしはその時、感動を押さえることができずに、男泣きに泣きました。夕方のクリスマス祝会も大変喜びに満ちたものでした。キャンドルサービスがあって、出席した一同が、ある者は大きな声で賛美をし、ある者は一年の感謝をしました。市川先生が「深谷君も証しをしな」とおっしゃるので、自分が主イエス様を知るようになった中学生の頃から現在にいたるまで、かなり長いお証しをしました。最後に涙で声が詰まってしまいました。先生の目にも涙が光っているように見えました。クリスマス祝会を終えて、桜台駅から自分のアパートに帰るまで、わたしは、うれしくてうれしくて、心の喜びを押さえ切れません。町を歩きながら、横に歩いたり、後ろ向きになったり、飛び跳ねたりして帰って行ったのです。自分の部屋に入って、油絵の具を紐で縛って押し入れに投げやり、「主よ、わたしは、あなたに献身し、牧師になります!」と祈りました。その時、20-30人の友人にはがきを書きました。「俺は今日、洗礼を受けて神の子となった。俺は罪が許され、永遠に生きることを信じる。お前も信じろ、このばか。」ここから、わたしに新しい人生が始まりました。
 兄弟姉妹!激動の時代に、わたしどもは生きています。詩人は原始の混沌を支配して恵みの世界を創造された神が、混沌の現実を聖霊の流れの中で清め分かち、終末の歴史の完成へと導くという信仰に立って断言しています。「神、その中にいませば都はうごかじ」、「万軍の主はわれらと共にいます」と。
【祈り】
 この世界の創造者にして、歴史の導き手、終末において礼拝されるべき父なる御神。今朝は、詩編46編を学びえましたことを感謝します。詩人のように、わたしどもも、揺るがない信仰を与えてください。原始の混沌を支配して恵みの世界を創造されたあなたがおられること、あなたがこの混沌の現実を聖霊の流れの中で清め分かたれること、終末の歴史の完成は、何よりもあなたを礼拝することだと学びました。「神、その中にいませば都はうごかじ」、「万軍の主はわれらと共にいます」と。マルチン・ルターのように、雄々しい戦いをされた先輩たちのように、この世の惑わしや誘惑に負けることなく、主の栄光のために大胆に歩ませてください。われらのために十字架にかかり、罪を贖い、死を克服したもうた勝利の主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

三つのパン

ルカによる福音書11章5~13節

 中近東では古来より旅人へのもてなしは美徳とされ、アブラハムが天使と知らずにもてなしてイサク誕生を確約されて(創18:1~15)以来、イスラエルでは旅人へのもてなしは信仰のバロメータとされた(ヘブル13:2)。今朝、イエスの譬えの主人公は夜中に遠来の旧友を迎えたが、旧友の腹を満たすパンを持っていなかったため、パンを持っているだろう近所の友人宅のドアを叩き、パンを3つ貸してくれるよう懇願した。私たちにもそれぞれ大切な友人が沢山いるが、その大半は未だ主を知らない。遠路遙々私たちを訪ねてくれた旧友は、キリスト者である私たちに一体何を期待してくれたのか。そして私たちはどのようなパンを以て、もてなすべきだろうか。そう!それは私たちにとって最も良いもの、最も価値あるキリストの福音を伝えることである。ところが、しまった!友人をもてなすパンがなかった!そんな経験はないだろうか。私たちは友人の期待に十分応えてきただろうか。十分にキリストを証しすることが出来ず、歯痒い思いをしたことはないだろうか。今、まさにそうであるならば、私たちに必要な「3つのパン」とは聖霊のことである。使徒1:8は私たちが聖霊降臨によってキリストの証人となることが出来ることを示している。清められなければ、何一つ良き働きを為し得ないのだ。聖霊に満たされていなければ、大切な友人にキリストを示すどころか、今!目の前の友人を救うために必要なパン(聖霊)を下さい!と大慌てで(「しつように」とは「緊急性を訴えて」の意)主に祈らなければならない。今朝、その必要を覚えたならばそれは本当に幸いである。
主がお与え下さるパンは以下の3つである。
1)聖霊は「求める者」に与えられる。・・・ルカ11:13、イザヤ55:1-3
2)聖霊は「聞き従う者」に与えられる。・・・使徒5:32、イザヤ55:1-3
3)聖霊は「信じる者」に与えられる。・・・ヨハネ7:39
讃美歌461「主われを愛す」の歌詞4番『我が君イエスよ、我を清めて、良き働きを、なさしめ給え』は、まことにアーメン!私たちの切なる願いである。
どうぞ今朝、主に切に祈り求める者、主の御言葉に聞き従う者、主イエスを全く信じる者となって3つのパン、聖霊をいただいて力強いキリストの証人となり、私たちの大切な友人や愛する家族、そして多くの人々にキリストの福音を宣べ伝え、教会にお招きし、救いの喜びを分かち合う日を願い求めよう。在主

門をくぐるだけ

ヨハネによる福音書10章7~10節

 「はっきり言っておく、わたしは羊の門である。」(7節)と、主イエスはご自身の事を門である、と宣言しております。その門とは「命の根源の門」を表わしており、門の内側には新しい命、キリストにある永遠の命が用意されています。そこで私達が真の救いを得る為です。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(9節)救いとは「罪・滅び」からの救いです。「真の命を得る為にこの門をくぐって来なさい」という愛の招きのお言葉です。
 罪人である私達は確実に誰でも死を迎えます。聖書はことごとく私達に罪の宣告=死の宣告をしております。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)神は私達を脅しておけば、まともな人間になるだろう、又は、死は仕方ないから受け止めなさい、という思いで死の宣告をしたのではありません。親が平常心で子供に死の宣告をできるでしょうか。断腸の思いで、身が引き裂かれる思いで、最後まで望みを失わないのが親の愛です。神の御思いも同じです。
 「まことに主はイスラエルの家に言われる。わたしを求めて生きよ」」(アモス書5:4)と、旧約聖書のアモス書には、何度も何度も「生きよ」「生きよ」と、神の御心が示されています。神は私達を拒絶されるのではなく、主イエスという門を通って「生きよ、永遠の命を得て生きよ」と、身を切られる思いで叫んでおられます。門は城壁ではありません。門は、罪の世界に閉ざされておらず、開かれています。
 「・・・わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10~11節)罪という壁で隔てられていた神との断絶を、主イエス御自身が命を捨てられて、十字架に架かって私達の為に死んでくださった事により、イエス・キリストと呼ばれる門が復活の朝開かれて、全ての人が救われるようになりました。復活以来、キリストの門はこの世に対して開かれています。それは、キリストの御身体なる教会としてあらゆる国々の人々に向かって開かれています。
 この世では様々な闘いがあり、狼が襲って来るような事もありますが、自分で闘うのではなく、この門をくぐって逃げ込めば良いのです。キリストの門を通って永遠の命を頂きながら、試練に打ち勝つ平安、憎しみに打ち勝つ神の愛と赦しを豊かに受けて、この世に派遣される私達です。

満たされる秤、持っています

マルコによる福音書4章21~25節

 ヨハネによる福音書では「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)と、主イエスを「光」と表わしています。又、主イエス御自身を「ともし火を持って来る・・・」(マルコ4:21)と、譬えておられます。「ともし火を持って来る」の直訳は「ともし火が来られる」で「主イエス御自身が来られた」となります。
 私達を暗闇の罪の支配から、光の世界・神の御支配の中に招いてくださる為に主イエスは恵みの光・ともし火として私達の所に来られました。故に「聞く耳ある者は聞きなさい、何を聞いているか注意しなさい」(23~24節)と、主イエスが語られる御言葉を、注意深くお聞きする事が求められています。
 私達はしばしば御言葉を概念的に理解しようとしたり、「これは私にとって必要、これは今の自分には受け入れられない」と、御言葉を選り分けてしまう事があります。それではせっかく灯された火を消してしまうようなもので、本来の意味を失くす事だと主イエスは語っております(21節)。「自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」(24~25節)
 この私に語ってくださるお言葉として、御言葉と向き合いそこに自分の身を置いた時に、お言葉の本来の役割を果たし、人を生かす為に光輝くものとなって100倍の実を結ばせてくださいます。これに対して御言葉を選んで自分の秤に入れてしまって、神の恵みを損う事もあります。
 「聞く」とは「従う」という同じ言葉からきています。「行ないが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)御言葉に従えない自分があります。しかし神が語られる御言葉は、そもそも暗闇から光の中へと招いておられる神の愛から来ているもので、束縛する為ではなく人を生かす為の憐れみと恵みです。従う事は学び得る事ではなく、神の愛と恵みを受け、その恵みによって生きて行く事が従う事です。主イエスを十字架に架けるまで私達を愛してくださった神の愛の御言葉を入れる秤は、既に与えられています。
 主イエスの光・ともし火を消さない為に「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上3:10)と、御言葉をお聞きする事に徹底していきたいものです。聞き続ける事によって私達は自分の秤が、恵みの御言葉で満たされていきます。御言葉を実践的にお聞きし、光を放つ者とさせて頂きましょう。