心の目が開かれて

ルカによる福音書24章28~35節

 クリスチャンの信仰は、主イエスの復活の上に築かれる希望です。キリスト教で最初の殉教者であるステファノを初め、日本の殉教者達を見ましても、激しい迫害の中で命が失われても、復活の希望に生きる素晴らしさを証しされた方々から、生きた信仰を教えられます。この地上での私達は様々な嵐の中で、視界を失うような試練が襲ってきますが、復活の希望の信仰に立っているなら、大嵐が襲ってこようとも動揺する事はありません。
 二人の弟子達は主イエスのご復活が分からず、弟子という歩みを捨ててエルサレムから離れ、失意と当惑の中、エマオへと向かっていました(13~17節)。この歩みは神から離れる一歩一歩です。「二人の目は遮られていて」(16節)、と主イエスの姿が見えなくなった途端に不信仰に陥ってしまったのです。しかし、救いの道を開かす為に、主イエス御自身が自ら近づいて、聖書を解き明かされ(27節)、聖餐の恵みを与えてくださいました(30節)。
 「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(31節)。信仰の目が遮られて心が閉ざされている時にも、主イエスは既に共に歩んでくださっております。主イエスは99匹を野に置いて迷った一匹を求めて捜し出してくださいます。迷った小羊が岩陰で泣いている時、一緒に涙を流しつつ尋ねてくださる、主イエスの憐れみと愛がそこにあります。復活の主イエスが見えるか、否かは問題ではありません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1)既に注がれている神の愛、憐れみを確信し、共に歩んでくださっている事を確認する事が重要です。
そうして彼らは心の目が開かれ「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」(29節)と、主イエスを無理に引き留めていますが、「私の心の中に宿ってください」という祈りです。今の時代も混乱は止む事なく、夕暮れの色は濃く陽は傾いています。今こそ私達もご復活の主イエスが心の中に宿って頂いて、そこから希望の光を見出す時です。
 弟子達の心に宿ってくださり、主イエスの祝福が彼らの心の目を、主イエスのお言葉が彼らの耳を開かせてくださり、エマオの途上にいる彼らを呼び帰されました。暗く沈んでいた彼らは「心が燃え」(32節)、エマオの道から又、エルサレムへの道へとUターンし、今度こそ復活の主の希望の道を歩み出しました。私達も心の目が開かれ、復活信仰に心燃やされる信仰者でありたいです。

見ないで信じる幸い

ヨハネによる福音書20章24~29節

 復活された主イエスが弟子達の前に現れてくださり、平安と喜びに変えられましたが、そこにはトマスはおりませんでした(24節)。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)と、自分で納得し確信しなければ、ご復活の主イエスを信じないと、自己主張したトマスです。
 彼は復活の喜びよりも、主イエスが十字架にお架かりなる前に裏切った事の罪責感、ご復活を信じる事ができない不信仰等、苦しみの中にありました。「恐れ・不安・不信」という人間の罪の姿が記されています。
 しかし、主イエスはそのような者を断罪するのではなく、愛と憐れみのまなざしで「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)と、精一杯の愛と赦しのお言葉でご自身の元へと招いてくださいました。そのお姿は栄光の光に輝くものではなく、最もむごい十字架の屈辱の死に御身を引き受けてくださった傷だらけのお姿です。
 ご自身の痛みを抱えつつも、トマスの痛み、迷いや恐れも全て受け入れてくださった事により、彼の頑なな心を開かせ「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と、信仰告白に至らせました。主イエスの傷跡は、この私の罪を赦す為に、私の代わりに神から裁きを受け、私の為の赦しの傷であることを悟らせて頂き、慰められる者へと変えられました。その事によって疑うトマスが私の救い主であると告白し、真の平安が与えられました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたの神は言われる」(イザヤ40:1~2)主イエスが十字架という苦役を自ら受けられた事によって、私達を罪の縄目から解き放ち復活された事により、慰められ、平安が与えられます。
 主イエスは人々がまだ信じない内に、その命を捨ててくださいました。キリスト者の為ではなく罪人のままでいる私達の為に傷跡をもって現れてくださいました。それは罪人を変えて信じる者となるために、慰めと憐れみの神が共にいてくださるという証拠と言えます。
 礼拝毎に傷跡をもって復活された主イエスが「あなたがたに平和があるように」と、罪の赦しの宣言をしてくださっております。この慰めのお言葉が私達の生きる力となっていくのです。

キリストの復活

ヨハネによる福音書20章1~18節

 『キリストの復活』は、主イエス・キリストを神の御子(ロマ1:4)と証明し、贖罪の御業の完成を現し(ロマ4:25)、信仰者の復活(1コリ15:20)と栄化(フィリ3:21)を保証する『キリスト教信仰の要』である。私たちはヨハネによる福音書の読み進めながら、主イエスの弟子たちの目を借りて、主イエスと出会い、主イエスの小さな弟子として歩んできた。今朝、私たちは、神の子メシアと信じていた主イエスを失い、絶望のどん底に突き落とされたペトロやヨハネ、愛しい御方に永遠の別れを告げに来たマリアと共に、墓へ走り、墓に入って来て、空っぽの墓を見た。
【来て、見て、信じた】10節。
 マグダラのマリアの「主が墓から取り去られた」という知らせに、シモン・ペトロともう一人の愛弟子(ヨハネ)は、墓へ走り、墓に入ってきて、見て、信じた。何を信じたか?「遺体がないことを確かめたので『イエスの復活』を信じた」と読み込みたいが、彼らは喜ぶことなく家に帰っている。9節のヨハネの告白も然り。彼らは「遺体がないことを確かめた」ので「マリアの言うように『主が墓から取り去られた』と信じた」のだ。しかし落胆する必要はない。直弟子の彼らでさえ、ペンテコステの聖霊降臨まで『キリストの復活』を本当に理解出来なかった。私たちも聖霊の注ぎを願い求めよう。
【わたしの兄弟たち】17節。
 マリアに復活のイエスが声をかけて下さったことは、本当に幸いである。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」ヨハネ15:12-15節で、主イエスは私たちをには「わたしの友」と呼び、その「友のために自分の命を捨て」て下さった。そして今朝、復活のイエス様は、私たちをまるで血を分けた兄弟姉妹のように「兄弟」と呼ばれる。主イエスの十字架の血の贖いによって、罪許され、イエス・キリストの御名によって、神の子とされ、神を父と呼び、キリストの兄弟姉妹とされたのである。
イースターおめでとうございます。

キリストの十字架上の苦しみ

ルカによる福音書23章26~31節

 主イエスは十字架にお架かりなる時、ご自身が背負われた十字架の重さに押し潰され、体力尽き果てて背負う事ができなくなりました。その重圧はそのまま、私達の罪の大きさである事を痛切に思わされます。
 そこでキレネ人のシモンは、主イエスの十字架を無理やり背負わされましたが、抵抗せず従順に十字架を負いました(26節)。彼の負わせられたのは主イエスの十字架でしたが、それは何の罪もない主イエスが、私の罪を引き受けて、苦しみを受けて、死んでくださった十字架である、という事を知るに至ったのです。ここに、信仰者のあるべき姿、主イエスの十字架に対して、私達がどのように応答すべきであるかが語られています。
 主イエスは「私に従いなさい」と、幾度も仰せられました。「従う」とは「同じ道を歩む」という意味で、キリストの十字架の足跡を辿る事を示しています。私達自身が主導権を主イエスに明け渡し、主イエスの歩まれた苦しみの道、十字架の道を歩む事です。私達の罪の為に先立ち、苦難の道を歩まれる主イエスの背後につくように招いておられます。神は私達の人生を導き、命を守ってくださる為に、自分の十字架を背負わせて、救いを実現されます。
 主イエスが十字架上で無惨に殺される事に嘆き悲しんでいる婦人達に「・・・むしろ、自分と自分のこども達のために泣け・・」(28~29節)と、厳しく戒められました。今、主イエスの為に涙している場合ではなく、やがて自分の罪の為に裁かれた時(21:20~24)、むしろこどもがいなかった方が良かったと嘆くようになるから、今、自分の罪の為に嘆きなさいと言われます。十字架がどのように自分と関わっているかを見つめる事が求められています。
 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14:27)と、主イエスは仰せられました。弟子という語は「学ぶ者」を意味し、キリストの十字架に学ぶ事です。「自分の十字架」とは、今、抱えている自分の試練や困難を負う事はありません。キリストの十字架は同情するものではなく、又、感謝するに留める事でもなく、自分の罪の深刻さ、そのもたらす結果の恐ろしさを見つめる事です。このように私達の生涯は、徹底的にキリストの十字架の苦しみ=自分の罪と向き合っていく歩みです。十字架の道は死の道ですが、それは永遠の命の道に至る復活の道です。この祝福の命の道を歩ませて頂く為に、自分の十字架を負って歩むのです。