神が見ておられるパン

マルコによる福音書2章23~28節

 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・・7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト20:8~11) 安息日は神によって創造された全てのものが神の祝福を受ける時です。又、イスラエル民族が奴隷状態にあったエジプトから救い出してくださった神の恵みを思い起こし、感謝して主を褒め称える日です。更に現代のキリスト教においては、主イエスが復活された日曜日を記念して神聖な日・安息日として定められ、私達は日曜日に礼拝をお献げしています。
 当時のユダヤ人は安息日を厳格に守っていましたが、次第に本来の意味が忘れられ、禁止条項を守る事が第一となっていきました。ファリサイ派の人々においては、世の世俗を嫌い律法を守る事で自分達は聖なる者という差別意識を持ち、主イエスの弟子達が安息日に麦の穂を摘んだ事を律法違反だと批難し、自分達の正しさを主張していたのです。(24節)そこで主イエスは旧約聖書に登場するダビデが、サウル王に追われ空腹のあまり律法違反し、食してはならない聖なるパンを食べた時の話をされました。神はダビデを罰する所か、憐んでくださり支えてくださったのです。そのパンは「神が見ておられるパン」という意味で、人が形式的に律法を守るより、神の眼差しがどこに向けられているかを知る事の方が遥かに重要である事を教えられました。(サムエル記上21章)
 「安息日は、人のために定められた。人が安息のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(27~28節)安息日は人が人として生きる為に神によって定められたものです。守らなければならない義務ではなく、神の元で安らぐことが許されている祝福の日・恵みの日です。自分の意志でお献げしているのではなく、一方的な神の愛と憐れみの故です。
 人は様々な事に縛られ、嘘を言い、見栄を張り、欲をかいて争い、人を愛したかと思えば憎み、ドロドロとした罪の中で安息なき日を過ごしています。このような様々な罪に苦しむ私達を解放してくださる為に、主イエスは礼拝に招いてくださっております。神の御前に立たせて頂いて真の安息に与り、慰められ癒されるのです。ファリサイ派の人々のように神の御前に立とうともせず、律法を守っていても本末転倒です。安息日に神の御前に出る事からの全ての祝福は始まります。神の祝福の眼差しで見つめられている私達です。

新しいぶどう酒の恵み

マルコによる福音書2章18~22節

 旧訳の古い律法・掟はイエス・キリストの十字架の犠牲によって、私達の罪を清算してくださった救い主が共にいらしてくださる、という事によって全く新しくされました。それは神が招いてくださった祝宴の喜びに与るようなものです(2:13~17、19)。放蕩三昧した罪人が父なる神の元に戻ってきた時、神は「食べて祝おう」とも記されているごとく(ルカ16:11~)神からの恵みと祝福です。主にあって喜ぶ事こそ私達の真の誠実です。ユダヤ人の伝統的な信仰生活「~であるべきだ」という古い形式的なものを突き破った新しい恵みです。
 この新しい恵みの信仰に生きる為に神が望んでおられる事は、私達に新しいものを古いものに当てはめるような愚かな事をせず、私達自身が新しくされる事です。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)
 その譬えとしてぶどう酒の話をされました。「・・だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(22節)新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら、ぶどう酒はまだ盛んに醗酵し続けているので、弱くなっている古い革袋はそれに耐えきれずに破れ、両方とも駄目になってしまいます。古いままの自分ではせっかくのイエス・キリストの恵みがだいなしになってしまうのです。
 この話のきっかけは、断食についての論争が起きた事でした。旧約聖書には断食について「苦行」と表現されています。目的は神に対して悔い改めを現す行為で、救われる為の手段でした。しかし、古い律法に縛られていたファリサイ派の人々は苦行難行して断食する事が救いの目的となり、神の赦しの恵みよりも自分が悔い改める事が御手柄のようになっていました。
 「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」(20節)主イエスが捕えられ十字架につけられた時、初めて罪の赦しを知る事となりました。断食に代表されるような形式的で伝統的な信仰のあり方ではなく、罪の赦しの恵みの中で真実な悔い改めができるようになった私達です。悔い改めは私達が胸を打って断食をする事ではなく、イエス・キリストの十字架の恵みに触れて初めて為される行為です。人間側の罪の自覚ではなく、自分の罪を知らない事を神に訴え、罪を神から示され新しい恵みの中を歩む私達です。

新しい神殿

ヨハネによる福音書2章13~25節

詩24篇は問う「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」
我々は答える。「我々のうちに聖なる神の御前に立てる者など一人もいない。」
【1】主イエスは神の宮を神の愛・聖なる怒りを以てきよめてくださる
ユダヤ人の過越祭(13)。神の民イスラエルは神との関係を保つため、全ての成人男子がエルサレム神殿の礼拝に与り犠牲を献げた。神は異邦人をも愛されて救いを望まれた。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる(イザ56:6-7)。 しかし神殿の異邦人の庭は、動物を売る者や両替人が暴利を貪り、祭司たちは私腹を肥やし、動物の鳴き声と悪臭、商売の声が飛び交い、異邦人はどこへ行って礼拝を献げればよいのか!神の聖き怒りは、あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽く(詩69:10)し、御子イエス・キリストの宮清めとして世に示された。詩65篇は神が罪を自覚した者の咎と背きを清め(贖い)、御前に立つ救いの喜びを与えるという大いなる約束を告げている。主は今も生きておられ、我々の祈りの妨げ全てを「このような物はここ(神の宮)から運び出せ」と命じて、聖なる神の怒りを以て完全に清めて下さる。
【2】三日で再建された神の宮は主イエスの体・教会・私達一人一人である
宮清めの権威「しるし」を示せと迫るユダヤ人たちに予告したとおり、主イエスは三日目に死人のうちより甦り、神の御子の権威を示された。主がご自身の体を「神殿」と言われたのは、肉体の甦りと共に、旧約の預言「新しい神殿」(エゼ36:24-32、37:23-28等)と同様に、神の民の霊的回復をも指している。今や霊と真を以て神を拝する唯一の場所は、エルサレム神殿でもヤコブの梯でもなく、全ての人の罪を贖われた十字架上の主イエスの体であり、御宝血によって清められ贖い出された新しい契約の民の集う教会こそキリストの体(コロ1:24)であり、我々キリスト者一人一人は神の住まう神の宮(Ⅱコリ6:16)である。
【最後に】神の宮なる私達一人一人が清められ、私達の集う教会が全く清められたとき、私達は神の栄光を現す (Ⅰコリ6:19-20) ことが出来るようになる。
さあ、今朝こそ、私達は主イエスを信じ求めて祈ろう。今朝こそ約束の聖霊のバプテスマ(使1:4-5)に与ろう。聖霊の炎によって、神の宮なる私達一人一人から、私達の集うキリストの体なる教会から、祈りの妨げとなる一切合切を残らず焼き尽くして頂こう。全く清められて主に喜ばれ、神の栄光を現す新しい神殿となろう。ハレルヤ!主に感謝

罪人を招くために

マルコによる福音書2章13~17節

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)
 主イエスがこの世においでなった目的は罪人を単に救う為ではなく主イエスの食卓=祝宴に招いてくださる為です。罪人と食卓をする事は、その人と同じ者になるという事を意味し、ご自身が罪人の汚れを身に受けて深く交わってくださり、慰められ希望が与えられます。そこには十字架の犠牲による愛が溢れています。私達の祝福は主イエスの食卓に招かれ共に食卓に与る事です。天の御国に帰る迄この恵みに与り続け、やがてこの命を全うした時、天の御国でこの祝宴は完成されます。
 主イエスが近づいておられても(13節)、罪に縛られそこに行く事もできないレビ(マタイ)に「・・収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(14節)と、状況をつぶさにご覧になり罪の中から救い出され、当時は徴税人=罪人とみなされていた彼を弟子とされました。主イエスの招きはこの世の成功者ではなく、弱い者、貧しき者、病める者、罪人等の為です。主イエスに招かれ、主の御前に立たせて頂いて初めて自分が罪人である事に気づかされ、神の愛と憐れみに触れさせて頂けます。収税所だけが自分の居場所で罪の中に埋もれ、お金にしがみついていた彼が主イエスの愛と憐れみにすがる者とさせて頂きました。罪から救われるという事は価値観が逆転する事です。
 一方、律法を厳格に守りながら人を見下しているファリサイ派の人々のように(16節)、自分は正しい者と思っている人々には主イエスの呼びかけに応えず、立ち上がれずにいつまでも自分の場所に座ったままで、真の祝福を知らないで人生を終えてしまう人々もおります。無条件で今座っている場所から立ち上がらせてくださる主イエスの恵みに応えられる人は幸いです。
 レビの如くに罪だらけの生活に埋没してはいないでしょうか。そのような姿を憐れんで声をかけて招いてくださるのが、週毎の礼拝です。私達は日曜日毎に礼拝に招かれ、又、聖餐に与らせて頂いておりますが、神に名を知られるに相応しくない者が招かれているという事は、決して当たり前の事ではなく人の思いを絶する神の恵みです。その恵みの中で「『内なる人』は日々新たにされ」(Ⅰコリント4:18)、と、日毎に清められて信仰生活を送るのがキリスト者です。